正真
同名の刀工が多数いる。『古今鍛冶備考』では正真の銘の刀工は8人が挙げられている。 中でも特筆されるのは以下の4人です。
伊勢千子正真
桑名住人村正を祖とする伊勢千子派において、正真は正重に次ぐ高弟である。藤代義雄の評価では末古刀上作。
銘は「勢州桑名住千子正真」と切ることもあるというが、実際は「正真」の二字銘が多い。 「藤原正真作」と切ることもあるらしく、『土屋押形』に載る「藤原正真作 大永六年八月十二日」(大永6年=1526年)銘の刀は、同書では三河文殊正真とされているが、福永酔剣は千子正真の作だろうとしている。 また、「藤原正真作 永正十二年三月日」(永正12年=1515年)の銘がある千子正真もあるといいます。
作風は「作品短刀多く、その直刃は腰乱がある」。藤代義雄は、正真は千子派ではあるが作風はそこまで村正に近くはなく、千子正真と言われる刀工は複数いたのではないか、村正とは国が違うのではないか、と疑問を呈している。 実際、楠木氏の系図では、二代正重は伊勢ではなく大和や河内で活動していました。
大和金房正真
金房(かなぼう)派というのは、奈良の金房辻、特に子守(現在の奈良市本子守町)にいた刀工集団で、 銘が残るものでは永正14年(1517年)の正重が最も古く、天文(1532-1555)年間が質の最盛期で、慶長(1596)以降は京の刀工との競争に負けて「奈良物」という数打ち物に転落した。 金房派は宝蔵院を含む興福寺僧兵から後援を受けていて受注が多かったらしく、特にその槍は至極とされ、宝蔵院流槍術流祖胤栄は金房政次に十文字槍を三本作らせている。また、彫物も得意としていたので、高位の武士から人気がありました。
備後貝三原正真
貝三原派の正真は、備後国三原(現在の広島県三原市)に住んでいた明応(1492-1501年)・文亀(1501-1504)ごろの刀工で、「備後国三原住貝正真」と銘を切る。
『古刀銘尽大全』によれば、三原正近の子であり、最上大業物三原正家の曾孫に当たる[11]。 貝三原というのは、俗説では三原派が広島県尾道市御調町貝ケ原に移住したから、とされるが、実際は三原正清を祖とする分派のトレードマークのようなものである。
三河文殊正真
三河国田原(現在の愛知県田原市田原町)に住んでいた刀工。天下三名槍の一つ蜻蛉切を作ったという。 手掻包吉の弟子説とそれを採用する福永酔剣らを除けば、基本的に独立の人格を認めず、金房正真が田原に移ってきた人物とされています。
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