絵画 日本画 | 買取品目 | 絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目絵画 日本画

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    丁寧なご説明と仕分け

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    幅広い取り扱い

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絵画 日本画の買取について

「日本画」とは、日本独自の岩絵の具や和紙、絹など西洋画とは異なる画材料を使い、日本の伝統的な表現技法を用いて描かれた絵画のことです。掛軸、浮世絵、水墨画、仏教絵画などの分野に分かれ、代表的な日本画として、平安時代の頃に源氏物語などの絵巻物に描かれた大和絵があります。また、寺院や城郭などの襖(ふすま)や屏風(びょうぶ)、壁などの金箔地に狩野派や琳派などの画家によって鮮やかな濃彩色で描かれた絵画もその一つです。さらに、江戸時代には大衆文化として多くの庶民が保有し、鑑賞して楽しんだ浮世絵などがあります。

近代日本画の歴史

日本画の始まり

奈良時代から平安時代にかけて、中国や朝鮮半島などから渡来した技法や様式で描かれた図画が「唐絵」と呼ばれた。これに対して日本的な主題を描くものがうまれ「大和絵」と呼ばれるようになった。宮中の様子や行事を描いた物がこれにあたる。その後、「漢画」に対する「和画」や、「唐画」に対する「和画」などと、呼び方やその区分は時代によって異なるが、海外から新しく流入した画風に対し、旧来のものを日本の伝統的なものと考えるパターンは繰り返されてきた。

時代は動乱の幕末を越えて始まった明治時代の初期にヨーロッパからもたらされた油彩画すなわち西洋画(または「洋画」)に対して、それまでの日本にあった絵画に対して用いられたのが「日本画」の始まりである。

明治時代~近代にかけての日本画の流れ

明治時代に入り、長く続いた幕藩体制が崩壊した事によりお抱え絵師という制度が消滅した。日本最大の画家集団と言われる狩野派も、事実上江戸時代の終わりと共に解散したと言える。

明治維新による幕藩体制の崩壊と、それに伴う近代的国家体制の樹立という大変革がもたらされた明治時代。日本の美術界もまた西洋美術という、それまで日本が持っていた美意識とは正反対のものに出合い、6世紀の仏教伝来以来の大きな衝撃をもたらすことになる。

1876年、明治政府は西洋画法を学ぶため、イタリアからアントニオ・フォンタネージを招き、工部美術学校を創立した。浅井忠らがその第1期生であった。その2年後の1878年にフォンタネージは帰国。一方、アメリカ合衆国からアーネスト・フェノロサが来日し、東京帝国大学で哲学などを教えた。当初、日本には無かった西洋哲学を広める目的で来日したフェノロサが日本の美術に強い関心を示し、評価した。

当時、急激な西洋化に加えて廃仏毀釈も加わり、これまでの日本の美術品の価値は著しく価値を落とし荒廃していた。文明開花の思潮とも重なり、伝統画家達も職を失い困窮を余儀なくされた。この状況を危惧した佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆一ら政治家が1878年に日本の美術品の保護の為に作ったのが龍池会である。

そんな中、フェノロサが1882年に龍池会で行った講演「美術真説」で使ったJapanese painting の翻訳が「日本画」という言葉の初出である。この講演でフェノロサは次のような点を日本画の特徴として挙げ、優れたところと評価している。この講演でフェノロサは次のような点を日本画の特徴として挙げ、優れたところと評価している。

  • 写真のような写実を追わない。
  • 陰影が無い。
  • 鉤勒(こうろく、輪郭線)がある。
  • 色調が濃厚でない。
  • 表現が簡潔である。

「絵画とは『妙想(みょうそう)』と呼ばれる作家の理想が表現されたものであり、写実にとらわれずに自由かつ簡易に妙想を表すのに日本画の特徴は優れている」と述べ大きな影響を与えた。

そしてフェノロサは浮世絵と南画(『美術真説』では文人画)は、これからの近代日本画には不必要なものとして除外してしまう。

浮世絵は江戸時代後期に流行した最もポピュラーな日本の絵画であり、当時来日していた外国人達の日本の絵画の認識はこの浮世絵が主だった。しかし写実とは程遠く誇張が多かった所から外されたと一説では考えられている。

南画は江戸時代の武士や町人の知識層によって支えられた絵画であり、その当時で書画と言えば南画を指した。頻繁に仲間内で品評会が行われるなど大変な人気を博したが、多くの外国人にとって詩書画一致の世界観や写実とは程遠い表現は難解に感じられた事が影響していると言える。

フェノロサにとってこれからの日本画を目指す上で意図したところは、日本画の線と明暗と色彩を改良して、西洋の絵画に負けないだけの奥行きや実在感といった表現形式を備えさせることだった。その重責を担い、これまでの日本の伝統絵画の歴史を背負い、その正当性が認められたのはやはり狩野派だったのである。

その後、フェノロサは旧来の美術をそのままに保護しようという方針の龍池会から独立し、新しい日本画の革新を目指す鑑画会をフェノロサの通訳を勤めており助手であった岡倉覚三(のちの天心)らと共に発足させる。この運動は明治20年(1887年)の東京美術学校の設立へと到る。

狩野派を中心とする気鋭の画家たちが織りなすフェノロサの新日本画創造運動によって、彩色法や構図法を刷新した鑑画会スタイルと呼ぶべき実験的な表現が生み出されたことは、近代日本画の歴史にとって決定的な意義を持っていた。

その代表的な存在が狩野芳崖である。狩野芳崖は狩野派最後の名手と呼ばれる狩野晴川院養信に弟子入りし(実質的には養信の子の雅信が教えていたと考えられている)、狩野奥絵師四家の一つである木挽町狩野家の塾長格になるほどの実力を持っていたが幕末の混乱期に困難な生活を過ごしていた。

時代は明治になり再起を図って再び上京したが生活は困窮していた。そんな折に1883年頃、フェノロサと岡倉天心にその才を見出され、新しい日本画への実験を鑑画会を舞台に繰り広げる事になる。この時既に芳崖は50代半ばを過ぎていたが61歳で没するまでのわずか数年間で近代日本画の金字塔とも言える代表作『仁王捉鬼図』や『悲母観音図』を残した功績は非常に大きいと言える。

東京で鑑画会の活動が活発になる一方、京都での近代化への変化は非常に緩やかであったが京都府画学校が幸野楳嶺らによって設立され徐々に変化を遂げていく。

この京都画壇の近代化での重要人物の一人である幸野楳嶺は、自身の作品での評価というよりも教育者としての方が名高い。自身でもそれを自覚していたようで、逸話の中ではある時、観相家に『あなたは一流の画家にはなれない。残念ながら画家としては二流に終わる。しかしあなたの弟子からは必ず一流の画家が生まれるので弟子の指導に力を入れなさい。』と言われ実行したという話もある程、弟子の教育に心血を注いでいた。

その教育の中には鑑画会のフェノロサの考えも取り入れられたと考えられており、観相家の予言通り弟子からは近代日本画壇の巨匠の一人となる竹内栖鳳が出ている。その他にも多くの一流作家を輩出し、また多くの画家に影響を与えた。幸野楳嶺を中心に緩やかではあるが京都画壇も近代化への歩みを進めていく事となる。

1890年頃になると日本画は近代化に向けて様々動きが活発化する。岡倉天心とフェノロサを中心に1889年に東京美術学校(後の東京藝術大学)が開校され、初代校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就任した。西洋画の教育を排し、絵画としては橋本雅邦らを教師として日本画科をのみ設けた。(後に川端玉章、巨勢小石らも教官となる。)第1期生には横山大観、菱田春草、下村観山、西郷孤月らがいる。

1879年に発足した保守系美術団体である龍池会は1887年に発展的に日本美術協会と改称した。これにより保守系の日本美術協会(旧派)は岡倉天心・フェノロサの東京美術学校系(新派)との対立軸を展開していく事となる。

岡倉は1890年には東京美術学校の校長にもなるが、1898年に東京美術学校騒動に端を発した美術界の騒乱により職を追われる事となる。これに伴い横山大観、菱田春草、下村観山らと共に日本美術院を創立し、岡倉天心の指導の下、新たな日本画スタイルへの実験が繰り広げられる事となる。

これまでの橋本雅邦や川端玉章の世代で行われていた伝統流派形式と西洋画との融合といった次元とは異なり、日本で言えば室町水墨画や鎌倉、平安時代の絵巻・仏画、正倉院宝物、中国でいえば、宋元画、隋唐壁画、さらにはインドまでを視野に入れたものであった。つまり日本・東洋文化を主軸とする新たな純正美術を模索する時代になっていったと思われる。

1900年に行われた世界的大イベントであるパリ万博に日本は「日本画が世界のスタンダードに通用するかどうか」を問う為に日本美術協会を中心に作品を選抜し臨んだが、結果としては国内外から酷評を受ける大失敗として終わる。

唯一の金杯が大橋翠石の写実的に描かれた虎の図であり、それ以外は西洋画と並べて比べられた際に圧倒的に見劣りするのが明らかな状態であったのだ。日本はこの万博にて辛酸を舐める事となった。

ただ、この万博に参加した竹内栖鳳はその後7ヶ月間ヨーロッパに留まり西洋画を貪欲に吸収していく。代表作である「羅馬之図」や当時日本では見る事が難しかったライオンを描いた屏風「大獅子図」はこの時のヨーロッパ滞在が大きく影響している。

竹内栖鳳は帰国後ますますの研鑽を重ね、後には日本画壇において横山大観と双璧を成す大家へと変貌していく事を考えるとこのパリ万博での失敗が後の日本画に与えた影響は少なくなかったと言える。

この頃から横山大観、菱田春草を中心として近代日本画の歴史を見る上で避けては通れない「朦朧体」(もうろうたい)への研究が展開されていく。

この頃の他の日本画壇にも近代化に向けての様々な変化があったのは事実だがその変化が緩やかに見えるほど岡倉天心の主導する日本美術院の試みは革新的であった。

その中で生み出された朦朧体だが当時の評価は散々たる物であった。特にこの時代の主たる日本画の購買層が保守的であり、新奇な物を好まなかった事が日本美術院の経営を圧迫していく事となった。

日本での朦朧体への批判や海外での自分達の日本画の可能性を見出す為に、横山大観と菱田春草は岡倉天心と共に1904年4月にニューヨークにて個展を行った。日本では不評であった朦朧体だが、意外にもこれが好評を博した。ニューヨークのセンチュリー・アソシエーションを会場にした展覧会では価格の高い方から売れていったと横山大観は伝えている。日本での価格の20倍もの価格で売れていたというから驚きの結果であったと言える。

ニューヨークでの成功に後押しされて、同年11月にはボストン郊外のケンブリッジにあるオリ・ブル夫人所有のスタジオ・ハウスにて「日本美術院正員の絵画及び漆作品展」を開催。横山大観、下村観山、菱田春草の絵画と六角紫水の漆工品が紹介し再び好評を得る。

二つの展覧会の成功は大いに力を与えたであろうが、おそらく企画者である岡倉天心の読みの中ではある程度海外での好評は計算に入っていたと考えられる。岡倉天心は西洋の文化と東洋の文化を幅広い観点で比較しその上で日本画の可能性を探ってきた人物であり確固たる信念の下、海外での展覧会を開催したのである。

海外での手応えとは裏腹に朦朧体作品は国内ではいっこうに売れず、院の経営はますます困難な状況となっていった。1906年、ついに日本美術院の研究所を北茨城の五浦海岸に移転する。世間では『都落ち』などと揶揄される程、当時の日本美術院の立場は苦しい状況にあった。この苦難の時期を経て、画家たちはそれぞれに朦朧体を消化した上でそこから更なる画境を模索するという道を歩む事となる。

日清・日露戦争に勝利し、一等国としての地位を確立した日本は西洋諸国の価値基準に追従するのではなく、自国の価値基準を世界に発信するように方向転換が行われた。東アジアに対しては大陸進出を狙った動きとなり、必然的に文化政策に於いても国威を示していく為に統一的な基準を持った日本美術が必要になった。そこで国が主導して1907年(明治40年)に文部省美術展覧会(以下、文展)が設立された。

日本の美術の統一基準をつくるべく生まれた文展であるが当時の日本画壇は新派と旧派の対立構造が激しく国によるコントロールは極めて困難な状況であった。

第一回文展は文部大臣の牧野伸顕と東大での同窓だった岡倉天心を中心に院展系の新派作家が中心となって行われた。これに反発して日本美術協会系の旧派は出品を取りやめるという新旧分裂が最初から起こるという前途多難な船出となった。

さらに第二回文展では内閣が交代し、新しく文部大臣となった小松原英太郎が旧派系作家を多数審査委員に登用した事に反発して今度は新派系が出品を拒否するという正反対の状態で行われた。

統合や団結とは程遠いスタートとなった文展であったが、それでも多くの作家が作品を公の場にて発表出来る場としての意義は十二分にあり、そこで傑作の多くも発表されたのも事実である。

第一回文展に出品された菱田春草の「賢首菩薩」では点描を用いて色彩を濁らせずに重ねて明度を増す高度な彩色方法を初めて試みた作品であり、後の今村紫紅の「達磨」や安田靫彦の「夢殿」などに大きな影響を与えた。

同じく下村観山の第一回文展出品作の「木間の秋」には琳派の伝統を取り入れた新しい試みの作品であった。

こういった実験の発表の場としての役割を担っていた文展に於いて次に述べる菱田春草の傑作「落葉」が発表される事となる。

1909年の第三回文展に出品された菱田春草の「落葉」は、近代日本が市場のメルクマールと呼ぶべき作品である。西洋的なリアリズムと伝統的な装飾表現とが融合した、日本画の新たな地平の誕生であった。基本的には輪郭線を用いない没骨法で空気の表現につなげているが、落葉は手前の葉はしっかりと輪郭線を用い葉脈まで描くが、遠くになるとシルエットだけになり、やはり空気感が意識されている。伝統的な日本画に新たな奥行きの表現を探ったこの作品は大きな反響を呼び、画壇に同構図の流行を引き起こすほどであった。(翌年の出品作である「黒き猫」はさらにその方向を進めた作品である。)

菱田春草は朦朧体を乗り越えていく為に、色彩の問題と構成の問題についてこの頃から再評価され始める琳派の装飾的な表現を取り入れていったのである。

菱田春草は西洋的な距離感と日本的な装飾性との融合を、冷静な態度で突き詰めていき傑作である「落葉」と「黒き猫」が生まれた。この春草の新たな画境は日本画壇に大きな影響を与えその後の活躍に注目が集まる中、明治が終わろうとする1911年(明治44年)に満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。若すぎる天才の死は日本画の進展にとってあまりにも大きな損失であった事は明白であり誰もがその死を惜しんだが、春草の路線は次世代の作家に大正という時代の中で引き継がれていく事となる。

朦朧体を乗り越える為に装飾的な表現を取り入れた菱田春草とは異なり、横山大観は西洋の印象派を取り入れ独自の表現を展開させていた。この表現も後の今村紫紅に影響を与える事となる。

日本の南画は、中国南宗画に起源を持つ。8世紀、唐の王維に始まるとされる南宗画は、華北地方に盛んだった北宗画(院体画)に対して、江南地方を中心とした絵画を指したもので、南宗様式と称されるスタイルを形成していった。下って元時代末期になると、文人たちが好んで南宋様式で描いた事から文人画=南宗画という定式が出来上がった。18世紀半ば、この南宗画が日本で盛んに学ばれ、池大雅や与謝蕪村によって大成される。幕末頃からは、これを南画と呼ぶようになった。南画とは日本的な南宗画という意味で、中国の南宗画や文人画とは違ったニュアンスで使われる。様式でもなく流派でもないこの曖昧な概念を示すのには、「南画」の方が実情に即しているともい言える。

幕末明治初期にあたってこの南画のスタイルが新しい近代日本画に寄与する所はなく、フェノロサがはっきりと南画を拒否する持論を展開した事もこの当時の南画の存在をはっきりとさせている。それにもかかわらず、南画様式は文展という表舞台において旧派としてその存在感を示し続ける。

この背景にはひとつには全国の地方文化の中に西洋化を忌避し、江戸時代以来の漢籍教育を素養とする芸術への根強い信奉があった事が考えられる。大正時代以後の状況変化としては、官展と再興院展が全国を巡回するようになる事、あるいはメディアの発達により文展や再興院展の作家、作品について新聞雑誌に取り上げられること等が挙げられる。交通機関、通信手段、情報入手方法の発達は、地方画家たち、とくに若い画家たちを刺激したはずだが、地方画壇の現実は結局大きく旧派に偏ったまま戦後を迎える事となるのである。

大正時代は明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも国内外が激動の時代であった。日本では2度の戦勝(日清・日露)を経て帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ「五大国」の1国ともなり、これらの国から誘われ第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。

西欧先進国の産業革命からの影響を受けて、明治の45年間をかけて国内での工業化も進み経済は着実な発展を遂げ、流通や商業が飛躍的に進歩した。鉄道網の形成や汽船による水運が発達、これと並行して徐々に町や都市の基盤が形作られ、さらに大正に入ってからは近郊鉄道の敷設、道路網の拡大や自動車・乗り合いバスなどの都市内交通手段の発展により都市化が促進された。録音や活動写真の出現、電報・電話技術の発達、そして新しい印刷技法による大衆向け新聞・書籍・雑誌の普及など、これらの新しいメディアによって文化・情報の伝播も拡大的に飛躍した。

中流層には「大正デモクラシー(民本主義)」が台頭し、一般民衆と女性の地位向上に目が向けられ、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする輸入物愛好、大衆文化や消費文化が花開いた。

大正時代初期には「個性」「自由」「自己」「生命」などといった言葉が盛んに使われ、これらを尊ぶ芸術観が広く浸透していく中で、日本画の新派作家にもより実験的な様々な変化が見られるようになる。代表的な作品として今村紫紅の「近江八景」、土田麦僊「島の女」、横山大観「瀟湘八景」、安田靫彦「夢殿」、小林古径「極楽井」など、明るい色彩を特徴とする西洋の文化を多分に受けた新しい感覚の日本画が描かれるようになった。

琳派の祖である俵屋宗達は江戸時代以降忘れ去られている状態が続き評価が低く、明治期に代表作の松島図屏風を始め多くの作品が海外に流出しても、それを憂える声は当時全く聞かれなかったという。同じ琳派であり俵屋宗達から大いに影響を受けた尾形光琳の方がその後の酒井抱一の研究もあり国内外から評価を集めていた。

そんな俵屋宗達が再評価されるきっかけとなったのが1913年(大正2年)に日本美術協会によって行われた初の回顧展である。この回顧展により俵屋宗達は一気に注目の画家となった。当時の美術史家の藤懸静也は、いち早く「宗達論」を発表し、冒頭で宗達の絵で注意すべき点は「日本趣味を発揮し、最も巧みな自己表現をしたことにある。」と述べ、宗達芸術の要点を日本趣味と自己表現であるとした。そして、「自由の思想」という点を強調して宗達の個性を見出そうとしている。

この頃になると明治初期から近代日本画壇を牽引してきた世代よりも下の世代である若い作家が頭角を現しだし、「自由主義」を背景とする新しい多様化した個性の表現を模索していた。そんな彼らとこの宗達が「自由な思想」「自己表現」というキーワードによって結びつき、小林古径、速水御舟、今村紫紅ら多くの日本画家に影響を与えた。

1898年(明治31年)に岡倉天心が創設した日本美術院は、1903年(明治36年)以降は展覧会を開催しておらず、岡倉が没する1913年(大正2年)には、事実上休止状態にあった。

大観らは、岡倉の葬儀に際して日本美術院の再興を期し、1周期にあたる翌年9月2日に、谷中に再建した研究所で開院式を行った。再興時の経営同人(画家)は、横山大観、下村観山のほか、木村武山、安田靫彦、今村紫紅、そして洋画家小杉未醒のわずか六名だった。

この時大観は日本美術院の三則を発表する。このうち最も重要なのが、「日本美術院は芸術の自由研究を主とす、ゆえに教師なし先輩あり、教習なし研究あり」という二番目の項であり、絵画の自由を求めた指針が示されている。

ここで彼らが不自由と感じていた物の元凶はといえば、文展の権威主義という事になる。当時、文展の審査員であった横山大観は文展から除名され、下村観山が横山大観に殉じて文展審査員を辞したことで、院展は必然的に半分店の展覧会と位置付けられることになった。

こうして始まった再興院展はその後の日本画の歴史にとって、計り知れない重要性を持つ。この時点で、それまでの旧派と新派との対立は、表現方法をめぐるものだったのに対して、官設展(文展・帝展)と再興院展との並立は、方針や存在意義をめぐる以降三十年にわたる画壇抗争の種となっていく。

この時代になると明治時代には見られなかった写実に高い関心がもたれるようになり、近代日本画の歴史上はじめてリアリズムの概念が自覚され実践された。その代表的作家に挙げられるのが速水御舟であり、1920年(大正9年)に院展に出品した「京の舞妓」は日本画壇に衝撃をもたらした。舞妓の顔、髪、着物の柄などを全て細かな線描で描き込み、畳の目一つひとつまで描き分けた圧倒的な細密描写は、それまでの日本画では考えられない描法であり、東洋画の精神を重んじてきた横山大観は、院展会場でこの作品を見るや速水御舟を除名してしまえと言ったという。

速水御舟は西洋の影響を受けて始まった近代日本画は、一度徹底した写実を経験しなければその先に進む事は出来ないという事を意識していたと同時に、美でも醜でもない真実を描くための手段として徹底した細密描法が必要であると感じ、これにより日本画の新しい可能性を見出そうとした。

速水御舟に代表される写実主義は他にも稲垣仲静の「軍鶏」、伊藤柏台「松並木」、榊原紫峰「奈良の森」、榊原始更「路」、土田麦僊「蔬菜」、石川晴彦「顔」などにも見る事が出来、様々な形で写実表現を取り入れている。

昭和初期になると西洋の影響を多分に受けつつも、古典への研究を重ね独自に解釈をし自己の新たな表現へと繋げる新古典主義とも言える動きが多くなる。

大正時代に革新的な写実表現で画壇に衝撃を与えた速水御舟は写実を基礎としながらそこに古典的造形要素と象徴性を加えた代表作「炎舞」を発表後、琳派的要素を強く意識した「名樹散椿」を描く。

横山大観は1930年(昭和5年)のローマで開催された日本美術展に出品した「夜桜」や、帰国後に発表した「紅葉」にこれまでの大観作品にはない装飾性を強く取り入れた。

安田靫彦の「風神雷神」は宗達から描き継がれたまさに古典的テーマだが、安田靫彦のこの作品は装飾的画風ではなく、線描表現で臨んでいる所に特徴がある。

小林古径の代表作である「髪」には、中国古典、古典大和絵、エジプトの古典様式などを独自に解釈してこだわった線描の技術が遺憾無く発揮されている。

吉川霊華は江戸時代後期の冷泉為恭に私淑し、復古大和絵の影響を多分に受けている。

その他、中村岳陵の「婉膩水韻 (えんじすいいん)」、小倉遊亀「浴女 その一」、福田平八郎「漣(さざなみ)」、山口蓬春「三熊野の那智の御山」などがこの例に挙げられる。

この頃になってくると大正期までは文展・帝展でしばしば表面化していた新派と旧派の確執が古典主義による統合によって、様式的区別が無意味化していった。旧派が規範とした谷文晁、渡辺華山、円山四条といった伝統流派が古典の概念から外れていき、特定の流派ではなくより普遍的な古典概念を規範としたことで、この時期には江戸時代から続いた流派様式は官展から完全に姿を消す事になった。

1879年(明治12年)にスタートした文展だったが時代を経るにつれ審査員任命方式や受賞に関しての批判が内外にあり改革の声が高まった事などを受け、1919年に帝展として生まれ変わった。しかし再び「帝展問題」と言われるまでに無鑑査の弊害に対する不満が募り、1935年(昭和10年)、文部大臣である松田源治が帝展改組案を打ち出した。(松田改組)

帝国美術院を挙国一致の組織として強化すべく、再興日本美術院ら在野団体を糾合して統合展を開催すべしというものだった。しかし、これがあまりにも突然の発表だったため、美術界のクーデターと称せられるほどの大騒動となった。これには美術家の間に不満が起こったが1936年(昭和11年)二月、松田の方針に従って官野連合の改組展は開催された。

ところが、その直前に松田が急死するという事態が起きた。この混乱を収めるべく、新文相に就任した平生鉢三郎は、すぐに官設展の再改組を断行、その年の秋に早くも改めて文展の名で再スタートを切った。しかし、今度は松田の方針を転換し概ね旧態に戻すような妥協案だったために、開かれた公募展を期待していた多くの在野派が離脱を表明。

結局は官野を統合する官設展の夢は崩れた。以降、1943年(昭和18年)まで新文展として官展は続く事となる。

戦争が進むにつれ、挙国一致体制の中で、画家たちは様々な形で国家に協力する使命を課せられていった。日本画家達の関わり方は、時局に配慮したテーマやモティーフを選んで描いた作品の売却や展覧会収入を国(軍部)に献上する事、従軍画家として戦地に赴き、記録画を描き戦争美術展に戦争画を出品する事などが挙げられる。前者の献納画では横山大観を筆頭に多くの画家が協力を行っている。後者の戦争画に関しては川崎小虎、川端龍子、福田豊四郎などが積極的に従軍し、戦争記録画を描き戦争美術展に出品した。

そうした軍との関りがある反面、軍部は戦争に反対する美術家たちを弾圧し、数多く出版されていた美術雑誌も、取り締まりによってまず八誌となり、次に二誌となり、最後には一誌だけに制限されていった。一般の展覧会はいずれも中止となり、美術団体の多くは解散となった。戦争が激化していく中で、とくに前衛美術は得体の知れないものとして弾圧を受ける事となる。絵具も配給制となり、時局にふさわしい表現以外は配給を受けられないという状況も現れ、1944年(昭和19年)には公募展まで禁止となった。同時に公募の文展に代わる物として戦時特別美術展を開催し、軍部に都合の良い物だけの出品とした。

この時代の日本画は、芸術表現としての真の内容を失い、形の表面性だけがむき出しになった時代と言える。

終戦を迎えこれまでの軍部による影響が無くなった日本画壇は徐々に活動を再開し始める。1946年3月に文部省が主催する日本美術展(日展)が東京美術館で開催された。鏑木清方、川合玉堂、前田青邨、松林桂月、横山大観、結城素明などが出品したが、制度の在り方などを巡って多くの団体、作家が反発し、第三回からは日本美術院をはじめとする主要団体が離反したことで、日展系、院展系、前衛系という戦後日本画界の大きな構図が作られ始めていった。

再興院展は、1946年(昭和21年)に第31回展を開催し、再出発をしたが新旧両世代で戦前の変わらぬ表現方法が目立ち、「院展はまるで没落貴族のおとむらいのようなわびしさ」(水沢澄夫「東京新聞」)などと、旧態に留まる傾向に対して不満の声が上がった。

こうした不満は院展のみに限らず日本画壇全体に向けられ、ついには日本画滅亡論に発展する事態となった。

近代の日本画は近代日本という国家体制の中で洋画との対概念として創られた。その概念は終戦による天皇を中心とする国家体制の消滅と共に、その時代基底を失う事で終焉を迎えた。というのは、近代日本画を支えてきた作家たちの殆どが終戦時には鬼籍に入っており、戦後を生き長寿を全うした幾人かの作家たちは、現代という時代に新たに生き直そうという意欲も見えず、最後まで近代を懐かしむ制作態度を貫いたからである。

1890年代から始まる近代の日本画史を常に支え、礎を築き、自ら変革し、そして成熟を促してきた日本画家たちは、およそ三世代にまたがる。

江戸時代末期に生まれた橋本雅邦(1908年没)、川端玉章(1913年没)、荒木寛畝(1915年没)、富岡鉄斎(1924年没)らを第一世代とするならば、竹内栖鳳、横山大観、菱田春草、川合玉堂、上村松園ら幕末から明治一桁生まれを第二世代、鏑木清方、今村紫紅、川端龍子など明治10年代生まれをはさんで、明治中期に生まれた小林古径、安田靫彦、前田青邨、速水御舟、土田麦僊、村上華岳らを第三世代と見なす事出来る。

このうち、終戦を体験したのは上村松園、川合玉堂、横山大観、鏑木清方、小林古径、安田靫彦、前田青邨、川端龍子だが、彼らに共通するのは、戦前期にそれぞれに確立した日本画様式を戦後になって自ら改めようとすることがなかったことである。

そうした流れの中で、上村松園は1949年、小林古径・川合玉堂は1957年、横山大観は1958年に相次いで他界した。近代日本画壇を牽引してきた彼らの死を以って近代日本画は終焉を迎えたと言える。1960~70年代まで生きた鏑木清方、安田靫彦、前田青邨らは近代日本画様式から離れる事無く画壇の長老格としての立場にとどまった。

近代日本画から現代の日本画への変革を担ったのは、第四世代となる山本丘人(1900年)、岩橋英遠(1903生)、福田豊四郎(1904年生)、片岡球子(1905年)、吉岡堅二(1906年生)、東山魁夷(1908年生)、杉山寧(1909年生)、高山辰雄(1912年生)ら、当時三十代の若手作家達であった。

現代日本画への流れ

近代日本画の巨星に代わって各団体は現代の日本画の形を模索する動きに移っていった。

日展系では「日展三山」と呼ばれた東山魁夷、杉山寧、高山辰雄が日本画壇を牽引していく。油絵と見紛うばかりの厚塗りの表現が特徴的な三者であるがそれぞれに独特の世界観を追求し新たな日本画を生み出していった。

日本美術院では郷倉千靭、奥村土牛、小倉遊亀らがヨーロッパ・モダニズムを基調とした造形志向を示し、戦後派ともいうべき中島清之、片岡球子、中島多茂都、岩崎英遠らはより前衛的な手法を用いて先鋭的な表現に挑戦していた。

日展および院展系東京作家6名(山本丘人、福田豊四郎、吉岡堅二、橋本明治、加藤栄三、高橋周桑)と京都作家7名(上村松篁、奥村厚一、向井久万ら)らは1948年(昭和23年)に現代の創画会の前身となる創造美術を結成。「既成団体との関係を断ち、団体の新しき在り方を創る」という、日展からの脱退を宣言すると共に「世界性に立脚する日本絵画の創造」を綱領に掲げて出発した。

戦後の日本画壇に於いて前衛的な表現を最も取り入れた団体が1948年(昭和23年)に京都で山崎隆、三上誠らを中心にパンリアル美術協会が結成された。シュルレアリスムと抽象表現とを基軸とした作風が特徴であった。

戦後の日本画には、近代の日本画を継続していこうとする保守派と、国際化・普遍化を志向する革新派、その中間を行く中庸派とが併存する。保守派は、戦前期に活躍した日本画の巨匠らが次々に世を去ると共に衰退し、前時代の日本画様式を維持していく事は難しくなっていった。現実に戦後の日本画壇の中心となっていくのは中庸派であり、戦後の日本画壇に鼎立した日展、院展、創造美術を継承した創画会の中心的な作家達だった。

20世紀後半の日本画は、そのスタイルを変えつつも国民絵画としての存在を保ち続けた。国民絵画としての日本画とは、国民からの支持を得たところに成立する日本画の昭和後期スタイルを言い、最も象徴的な作家が日展の東山魁夷と院展の平山郁夫である。彼らに代表される日本画が国民絵画として1950年代から今日まで長く持続したのには日本の時代背景との結びつきが非常に強い。

日本は戦後しばらくの混乱期を経て、高度経済成長時代へと転換した。日本の社会構造は、官僚主導のもとに各企業が横並びで保護されるという護送船団方式が強い枠組みとして機能する時代となった。日本画壇もこうした社会構造のもとで、日展と院展を頂点とした巨大な企業体のような様相を呈していった。成長経済の構造的基礎を成した日本型経営論理と官僚主義は、経済界だけでなく日本の社会全般、そして文化の領域にまであまねく浸透していった。「日展」「院展」の名前が団体に所属する作家にとっても、それを消費する国民にとってもブランド化していった。

こうした動きは1980年代のバブル景気時代を経て最高潮を迎えたが、バブル経済の崩壊によって国内・国民絵画としての日本画のあり方はその市場性に於いた行き詰まりを見せた。平明な写実を旨とする中庸派路線のスタイルは、新たな日本社会、すなわち合理化とIT化、そしてグローバル化していく社会構造への変化の中で徐々に活躍の場を失っていった。

では、こういった国民絵画としての日本画が今日見られる事が無くなったのかと言えば決してそうではなく、日展や院展の作品はバブル崩壊後も、今日までむしろ持続的な傾向を示している。しかし少子高齢化、人口減少、グローバル化、IT化など日本の市場環境が急速に変化し人々の価値観も多様化していく中に於いて、飽くまで国内向け国民絵画としての日本画というスタンスを固持し続けるのであれば日本画の未来は決して明るいようには見えない。

「国民絵画としての日本画」への閉塞感から脱し、グローバルに活躍する日本画家が1990年代から現れだす。

代表作「ウォーターフォール」で世界に認められた千住博は日本画壇の中で独自の存在感を放っている。またポップカルチャーとの融合で独自の世界を生み出す村上隆も世界で活躍している。彼らにとって日本画とは、もはや内向きの物ではなく、世界市場で通用する事を目指した、現代美術全般の動きの中に位置している。

世界から見た「日本の絵画」という認識で言えば、いまだ明治初期にヨーロッパで流行したジャポニズムの流れから葛飾北斎などに代表される浮世絵であったり伊藤若冲などの江戸時代絵画であったりと昭和後期に全盛を誇った国民絵画としての日本画とは全く無縁の所にある。さらに浮世絵の流れとも相通じる漫画やアニメといったポップカルチャーの方が日本の絵画としての中核的イメージを形作っている。

こうした背景の中、現代において「日本画」の定義は非常に難しい物となっている。日本画の技法材料を用いたとしてもそれは「近代の日本画」とは連続性を持っていない物も多く、そもそもこれまでの日本画の歴史認識や日本画への自覚を前提としていない作家も多い。

現在では、伝統にもとづく技法、感覚や美意識、表現などは時代とともに変化し、つねに日本画とは何か、また日本画と洋画の区別がはたして絵画表現にとって有効なのか、と問われ続けています。