古美術 古陶磁 | 買取品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目古美術 古陶磁

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高価買取のポイント

古陶磁のお買取りでは、産地・製造年・時代箱・極め箱・鑑定書により査定額が異なります。
買われた時は箱に入っていたお品物も、使ったり飾ったりすると箱が邪魔になり、処分する方も多いようですが、箱や鑑定書などの付属品がある事で査定額がプラスになる可能性がありますので、必ず箱や鑑定書は保存する事をお勧め致します。

古陶磁は時代や産地によって多種多様です。縄文、弥生土器といった考古学的な物、平安時代後期から鎌倉、室町時代の中世に生み出された六古窯と呼ばれる六つの古い窯で製作された物(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)、九谷焼、京焼、淡路焼、唐津焼、薩摩焼といった各地で人気のある物が挙げられます。

高価査定のポイントは幾つかありますが、先ずは時代です。
桃山時代や江戸初期の物は現存する数量や状態の良い物が少ないので、やはり買取額が高くなります。桃山時代の唐津焼のぐい呑だと、百万円を超える物もあります。

次に器形が重要なポイントです。
最近では広い戸建てよりもマンションなどで骨董品を楽しむ方が増えている為、大きな甕の壷よりも茶器や酒器などの比較的小さなものの需要が増えてます。
古陶磁に関しても、やはり昔から大切にされてきたお道具は上質な古裂に包まれて、立派な箱に収められています。ですから箱の有無や質感等も高価査定ポイントになります。更に蓋裏の極め書や、有名な茶人やコレクターが所蔵していた等の記載があれば、査定はアップします。
茶道具でいえば家元が銘を付けていたり、古陶磁では小山富士夫さんがよく題字を書かれています。

最後に挙げるポイントは、やはり傷の有無です。
先代が大切に収集してきたコレクションを店舗に持ち込まれる際、価値が分からない事から雑に扱い、途中で傷をつけられる方がたまにいらっしゃいます。これでは、せっかくの長い年月、作られた姿のままで伝世されてきた貴重な美術品も価値が半減してしまいます。
古陶磁は繊細な物も多々ありますので、十分注意を払ってお持ち下さい。
数が多い場合や、不安定な形をしていたり、薄造りで持つのが怖い時は、ご自宅での鑑定をお勧めしますので遠慮なくお電話下さい。

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高価買取だけではありません 豊後が選ばれる理由

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    丁寧なご説明と仕分け

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    ただお品物を買い取るのではなく、お客様のご質問に丁寧に答える事を大事にしています。またざっくりとした計算ではなく一点一点丁寧に査定を取らせていただきます。

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    幅広い取り扱い

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    臨機応変に対応

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    査定する事だけがお仕事ではありません。遺品整理、生前生理、美術品の査定書の作成、オークションの出品代行などお客様のご要望に応じて臨機応変に対応致します。

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よくあるご質問

祖父が集めていた骨董品の処分に困っています。 まとめて見てもらえますか?

どんなに多くても大丈夫です。 一点ずつ拝見して、価値や生産地、年代等どういった物かをご説明させて頂きます。

祖父の代から飾ってある焼物を処分したいのですが、箱もなく作者も分かりません。古そうなのですが皿1枚でも査定してもらえますか?

お皿1枚でも大変高価なものもありますので、気兼ねなくご連絡下さい。 LINE査定でも裏表の写真を送って頂いたら大体の事は、お教え出来ますよ。

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古美術 古陶磁の買取について

古陶磁は、世界各地により名称の分類に若干の差異がありますが、日本では土器、炻器、陶器、磁器の四種類に分かれます。

土器は有色粘土を素材として成形し焼成した無釉の焼きもので、早くから世界各地で製作されました。
日本の縄文土器、弥生土器、イラン、イラクの彩文土器や東地中海のキプロスや中国甘粛の彩文土器などが代表的です。

炻器は素地が白くなく石のような堅く焼きしまった焼きもので、一般的には半磁器の意味で用いられ、日本では備前、信楽、常滑や近世では赤膚焼などがあります。

陶器は釉薬をかけた焼きもので、素地にガラス質を含み少し吸水性があり、叩くと金属音を発しない焼きもので、日本では古瀬戸、黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部、唐津、萩、薩摩、高取、古清水、楽など、中国では越州窯青磁、鈞窯、磁州窯、天目、龍泉窯青磁などがあります。

磁器は高温で焼成し、焼き上がりの胎が純白で透明で吸水性が無く質が硬いのが特徴です。

国内の代表的な古陶磁として六古窯の他、伊万里焼、鍋島焼、唐津焼、萩焼、益子焼、九谷焼、楽焼などが有名です。
買取依頼を考えている方に向けて、知っておきたい古陶磁について下記にまとめましたので、売却の際の参考にして下さい。

六古窯について

日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な六つの窯の総称。
小山富士夫氏の命名。

瀬戸焼(愛知県瀬戸市)

伝承では鎌倉時代の13世紀中頃、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始といわれる。

室町時代に入ると碗、皿や鉢といった日曜雑器の生産が多くなる。
室町時代末頃までは古瀬戸と呼ばれる。
次第に生産拠点が美濃に移る。

桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。

江戸時代になると肥前の有田を中心に始まった有田焼と総称される磁器により、次第に市場を奪われ、衰退する。

常滑焼(愛知県常滑市)

猿投窯を汲む常滑焼の始まりは平安時代末期(1,000年頃)で、知多半島の丘陵地に窯が築かれました。粘土を焼き締めた碗や鉢、壷、甕が主な生産品。

当時の窯は「窖窯(あながま)」と呼ばれる簡易的な造りの窯で、その数は知多半島全域で3,000基以上ととも言われている。
知多半島で採取できる土は、鉄物を多く含み、低い温度でも焼締まる性質があり壷や甕といった大きな焼物を作るのに適していた。
海川を利用して全国各地へと船で運ばれ、平泉、鎌倉、京都、堺、更に広島や博多、大宰府など日本各地の主要な都市遺跡で発見されている。

窖窯は南北朝時代ごろから急速にその数を減らし、15世紀に半地上式の大窯へと改良され、室町時代から江戸時代にわたって使われていた。

江戸時代後期の天保年間に、朝鮮半島由来の連房式登窯という新しい窯が導入された。
この登窯は、焼成室が階段状につながった構造で、全ての製品を効率よく高温焼成することが出来る。

常滑といえば急須が有名だが、急須は江戸時代後期から煎茶の流行に伴って作られるようになった。稲葉庄左衛門が文政年間に急須を作り始めたとされている。
その後、天保年間に二代伊奈長三が板山で白泥土を発見し、その上に乾燥させた海藻をのせて焼く「火色焼」を開発した。

現在も作られ続けている朱泥急須は、中国江蘇省の宜興という窯業地で焼かれている紫砂を手本にして、安政元年、杉江寿門堂の手により完成した。

越前焼(福井県丹生郡越前町)

釉薬を用いらずに焼成される時に薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いで知られる。
歴史は非常に古く、平安時代から始まったといわれる。長く無名であったが第二次世界大戦後、小山富士夫等により日本六個古窯の一つに挙げられた際に越前焼と名付けられた。
それまでは「織田焼」と呼ばれていた。当初から壷や甕、擂鉢などの台所用品が作られていき、他の古窯が江戸時代に茶器などを焼いていった中で、越前焼だけは決して趣向を変えることなく、雑器を焼き続けていった。その為、江戸末期から明治には衰退の一途を辿り、一時は廃絶の危機に追い込まれた。

信楽焼(滋賀県甲賀市)

信楽は付近の丘陵から良質の陶土が出る土地柄で、信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と、自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として❝わび・さび❞の趣を今に伝えている。

信楽の土は、耐久性に富み、可塑性と共に古紙が強いと言われ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
信楽は奈良、山城などの畿内と東北地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した大きな要因と考えられている。

鎌倉時代後期、常滑焼の技術が伝わり、窖窯によって壷、甕、擂鉢などの焼物づくりが始められた。

室町・桃山時代以降、茶道の隆盛と共に「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきた。

江戸時代には商業の発達に伴い、茶壷をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、幕末には陶器製灯明具の一大産地であった。
明治期には新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産が始まり、その他小物から大物陶器まで様々な物が大量に作られ、質量ともに大きな発展を遂げた。

丹波焼(兵庫県丹波篠山市)

中世の丹波焼の特徴は赤っぽい土肌にかかる焼き締めによる自然釉に特徴がある。
備前焼、信楽焼に比べ、若緑色のおとなしめで爽やかな作品が多い。

江戸時代以後は釉薬や技法が多様になったが、現代の丹波焼でもその風合いを引き継いだ民芸調の作品が多く見られる。

平安時代末期から鎌倉時代が発祥と言われる。登窯により最高温度1300度で50~70時間も焼かれる為、器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すのが丹波立杭焼の最大の特徴である。

中世には轆轤を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られた。初期には壺や甕、擂鉢などを主に作っていた。

江戸時代に入ると登窯が用いられるようになり、大量生産品としての擂鉢が堅牢であった為、17世紀には中部・関東以北に急速に普及した。堺産の擂鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。
一方で小堀遠州の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され釉薬を用いた陶器が誕生した。

備前焼(岡山県備前市)

備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。
鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。
この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。
この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。

明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。
陶陽は重要無形文化財「備前焼」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。

釉薬を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤みの強い味わいや、「窯変」によって生み出される一つとして同じものがない模様が特徴。現在は茶器・酒器・皿などが多く生産されている。
「使い込むほどに味が出る」と言われ、派手さはないが飽きがこないのが特色である。
備前焼の魅力である茶褐色の地肌は、「田土(ひよせ)」と呼ばれるたんぼの底(5m以上掘る場合もある)から掘り起こした土と、山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を多く含む土とを焼くことによって現れる。土の配合にもある程度比率が存在するが、各々の土を寝かす期間も存在し、出土する場所によっても成分が違ってくる。よって、作るには熟練の技が問われてくる。
なお、金重陶陽は10年寝かせた土を使っていたとされる。

窯変の種類

胡麻(ごま)

窯焚の最中に、薪の灰が融けて生地にくっ付く事によりできる模様。

桟切り(さんぎり)

金・青・灰色などのさまざまな模様。

緋襷(ひだすき)

藁を巻き鞘などに詰め直接火の当たらない場所で焼くことによって、生地全体は白く、藁のあった部分は赤い模様になる。
赤と白のコントラストが端麗で人気も高い。

牡丹餅(ぼたもち)

焼成時に作品の上にぐい呑みなどを置くことで、該当部分が白くなる。
そのカタチが牡丹餅のようになることからこの名がつけられた。

青備前(あおびぜん)

通常備前焼き締めは酸化焔であるが、還元焔になることで青くなる。青備前は窯中で空気があたらない箇所で焼成されると出来る。
また、初代藤原楽山が考案した塩青焼という塩を用いた手法でも、独特の青備前がつくりだされる。

黒備前(くろびぜん)

古備前の時代に焼かれた備前焼の一つ。
残っている当時の作品は少ない。
近年、再現する技法が研究され、備前焼窯元の六姓の一つ森家の大窯や、著名な備前陶芸家の間でも焼かれている。
黒っぽいだけで黒備前と名付けられたものもあるが、本来の姿ではない。

九州の古陶磁

桃山時代に大きな転機を迎え江戸時代にかけて大きく花開いた日本陶磁の歴史。その発展において極めて重要な役割を担ったのが、九州陶磁でした。
朝鮮半島から渡来した陶工達は、唐津をはじめ九州各地に窯を開き、茶道具から日用雑貨まで優れた陶器を生産する礎を築きました。
日本初の磁器の焼成に成功した九州の有田では、日本独自の美しさをもった磁器が誕生し、17世紀後期以降のヨーロッパ向けの磁器生産を通じて、その魅力は海外にまで知られるようになりました。

伊万里焼

有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年 – 1598年)に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工が拉致・亡命などにより佐賀へ渡った。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。通説では朝鮮出身の李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、元和2年(1616年)に有田東部の天狗谷窯で磁器焼造を始めたとされている。

1610年代から1630年代頃までの初期製品を陶磁史では「初期伊万里」と称する。
この時期の製品は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色である。初期の磁器は、砂目積みという技法が使われている。砂目積みとは、窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で、中国製の磁器にはみられない朝鮮独特の技法である。
一方、当時の朝鮮半島の磁器は、器面に文様のない白磁であったので、呉須(コバルトを主原料とする絵具)で文様を描く染付の技法や意匠は中国由来(中国出身の陶工作)のものであると考えられる。
この初期伊万里は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に九谷焼や柿右衛門などに押され市場から姿を消してしまった。しかし初期伊万里は後に1960年頃より素朴な美しさや叙情美が再評価され、早々に市場から淘汰されたことによる流通量の少なさから以後は希少性が高く高値で珍重されるようになった。

1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。これらは、加賀(石川県)の九谷が産地であると長年考えられていたことから「古九谷」と称され、現代の陶磁史では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」と称されている。

1640年頃からは鍋島藩が将軍家・諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。この藩窯製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。

中国では1644年に明王朝が滅亡。1656年には清により遷界令が発せられて、商船の航行が禁止され、中国陶磁の輸出が一時途絶えた。このため、オランダ商館長ツァハリアス・ヴァグナーは中国製陶磁器を見本としてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼し、伊万里焼の海外への輸出が始まった。中国製磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への伊万里焼の輸出は継続した。

1670年代には、素地や釉薬が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られるようになった。この濁手の素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称している。

1690年代には染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。これを「古伊万里金襴手」と称し、この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。

鍋島焼

17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩)において藩直営の窯で製造された高級磁器である。佐賀藩の支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。
鍋島焼の伝統は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。

器種

大川内藩窯の主力製品は皿、向付などの食器類であり、近世に他の諸窯で盛んに焼かれた茶陶はほとんど焼いていない。壺、瓶子のようないわゆる「袋物」や蓋付碗、香炉のような製品も現存するが、いずれも数は少なく、主力は皿類である。
鍋島の皿は木盃形(もくはいがた)と称される独特の形状のもので、側面から見ると高台(こうだい)が高く、高台から縁へ張りのあるカーブを描く。
皿は円形のものが主で、直径が1尺、7寸、5寸、3寸に規格化されている。特に直径1尺(約30cm)の大皿は現存品が少なく「尺皿」と称されて珍重されている。
皿には高台周囲に短い脚を付した三脚皿や、八角皿、花形などの変形皿もある。向付や小皿は同文様のものが5客、10客などのセットで作られた。一方、尺皿には互いに同模様のものが少なく、1点生産だったと思われる。

作風・技法

「色鍋島」の名で知られる色絵のほか、以下の技法が用いられている。

染付

中国では「青花」と呼ばれる。
素地上に青一色で文様を表したもので、呉須(酸化コバルト)を呈色剤とする。
素地の上に直接、または素地を1回素焼きした上に呉須で文様を描き、透明釉を掛けて高火度で還元炎焼成(窯に十分空気を供給せずに焼く)すると青色に発色する。
染付のみ(青一色)の作品と、染付の上に色絵を施したものとがある。

青磁

素地に灰釉を掛けて高火度で還元炎焼成することによって、灰に含まれる酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄になり、青系色に発色する。

錆釉

酸化第一鉄を呈色剤として酸化炎焼成することによって茶系色に発色する。

瑠璃釉

呉須を上絵具ではなく釉薬として用いたもの。透明釉に呉須を混ぜる。

墨はじき

青海波文、七宝つなぎ文などの細かい地文を表す際に使われる技法。
青海波などの文様を青と白で表す場合、白くしたい部分の線を墨で描く。
素焼きした生地に墨で文様を描き、その上から呉須を塗る。
これを高温焼成(本焼き)すると、呉須は青色に発色するが、墨描きの部分は白抜きとなる。

色絵

染付で文様を描いた器の上に上絵付けし、再度低火度の酸化炎で焼成するものである。
鍋島の色絵は赤、黄、緑の3色のみを用いることが原則で、稀に黒や紫も使われるが、伊万里に見られるような金彩は原則として使われない。
中国や日本の他窯では青磁釉は単独で使用されることが原則だが、鍋島では「青磁染付」「青磁色絵」のように青磁を染付や色絵と併用したものも多い。

文様は更紗文、雪輪文のような幾何学的なもの、植物、野菜、器物などを図案化して描いたもの、風景などを描いた絵画的なものなど多岐にわたるが、いずれも純和風のデザインであることが特色である。
盛期の皿類には文様を周縁部にのみ表して、中心部を文様のない白抜きとしたデザインのものがあり、藩庁の意を汲んで斬新なデザインを工夫した結果ではないかと言われている。
文様は松葉、青海波などの細かい線まで正確に描かれ、染付の濃み(だみ)は1点の滲みやムラも残らないように完璧に塗られている。

皿の裏文様は、染付一色で唐花文、七宝つなぎ文などを規則正しく三方に配するものが典型的である。
鍋島皿の特徴は、表の図案の天地と裏の文様の天地が連動している点である。
皿の裏面は3つの文様単位が等間隔に配置され、それらが形作る三角形の角の1つが皿表の画面の上側に一致するように配置される。
高台の側面には櫛歯文を表すものが多い。
高台内には銘、界線などを入れず、目跡なども残さず、白一色に仕上げるのが通例である。

唐津焼

近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部で焼造された陶器の総称。
日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、作風・技法も多岐にわたる。
茶碗は古くから「一楽二萩三唐津」と称されて名高い。

伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。
しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。
また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。
以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。

古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。
岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。
窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。

文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。
中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。

草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。

江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。
しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。

明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。
だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。

唐津焼の特徴

唐津焼の特徴は李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。
特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。
窯は連房式登窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。
意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。

唐津焼の種類

唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。大きく分けて次のようなものがある。

絵唐津

器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。
土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。

朝鮮唐津

李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。
黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。上下逆の物もある。

斑唐津

長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。
独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。

三島唐津

朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。
象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。

粉引唐津

褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。

奥高麗

高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。和物茶碗として極めて評価が高い。

二彩唐津

緑色銅釉と茶褐色の鉄飴釉で松文などが描かれた。
産地としては武雄系唐津古窯などが知られている。現在はあまり作られていない。

この他に瀬戸唐津・青唐津・黄唐津・彫唐津・刷毛目唐津・櫛目唐津・蛇蝎唐津などがある。

上野焼

福岡県田川郡香春町、福智町、大任町で焼かれる陶器。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の引き上げの際、加藤清正が連れ帰った尊楷(上野喜蔵)が、細川忠興の小倉城入城の際に招かれ、豊前国上野に開窯したのが始まりである。
最初の窯は皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)の3つで、これらは上野古窯と呼ばれる。
江戸時代に入ると、小堀遠州に高く評価され、遠州七窯の一つにも数えられるほど茶人に好まれた。

上野焼の特徴は他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であることである。
また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用い、窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出すのが特徴で、絵付けは基本的に用いない。

高取焼

福岡県朝倉郡東峰村、福岡市早良区などで継承されている陶器で、400年ほどの歴史を持つ県下有数の古窯。

高取焼は元々、福岡県直方市にある鷹取山の麓にて焼かれており、朝鮮出兵の際に黒田長政が陶工、八山(日本名・八蔵重貞)を連れ帰って焼かせたのが始まり。
開窯は1600年と言われている。窯場には永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯があり、これらを「古高取」と呼んでいる。

江戸時代には黒田藩の御用窯として繁栄、元和年間には唐津からの陶工を招き、技術を向上させている。そして寛永年間に入ると、2代藩主黒田忠之は小堀政一(遠州)と交流を深め、遠州好みの茶器を多く焼かせた。それが縁で、遠州七窯の一つに数えられ、茶陶産地として名を高めることとなった。
この頃の中心は白旗山窯で、遠州好みの瀟洒な茶器は「遠州高取」と呼ばれた。

その後、二代目の八蔵貞明が現在の東峰村に鼓窯を築き(小石原高取)、より繊細な作品が多く焼かれた。以後は、福岡の大鋸谷に移転(御庭高取)、18世紀には「東皿山」と「西皿山」に分けられ、細分化されていった。

今日では数カ所の窯元が至る所に残っており、一度廃藩置県により廃窯した高取焼直系(高取焼宗家)の窯場にも11代目高取静山の手により再び火が灯り、現在も小堀遠州を流祖とした遠州茶道宗家のお家元から指導をうけ、一子相伝により伝統を受け継いでいる。

特徴

高取焼は時代によって、全く毛色が違っている。
高取焼草創期の「古高取」の中でも、特に「内ケ磯窯」は豪放かつ大胆な織部好みの意匠で、ロクロによって成形された真円にヘラで歪みを加えており、今日の視点から見れば芸術性豊かで興趣をそそる志向があるが、その奥に隠された思想により御用窯廃絶の憂き目に遭遇する事になった。
後の「遠州高取」になると器は端正になり、古高取とは対照的に瀟洒、風流人好みの作品が焼かれるようになった。
「小石原高取」の頃になると技術は爛熟し、「遠州高取」より更に繊細な作風となっている。
なお、小石原高取は民窯の小石原焼に多少の影響を与えている。
今日の作風は小石原高取以後の技法で、使用する釉薬は多い。個性的な釉薬が多く、高取黄釉、春慶釉、高宮釉、道化釉、ふらし釉、真黒釉などがある。

薩摩焼

鹿児島県内で焼かれる陶磁器。竪野系、龍門司系、苗代川系がある。
主な窯場は姶良市の龍門司窯、日置市の苗代川窯、鹿児島市の長太郎窯など。
「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の陶器と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれる。
初期の薩摩焼においては豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際にて連れてきた朝鮮人が島津義弘の保護の下に発展させた。

白薩摩(白もん)

日置市の旧東市来町の美山にある苗代川窯で焼かれていた陶器。
藩主向けの御用窯で、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手が主である。
元々は苗代川焼と呼ばれ、薩摩焼とは名称を異にしていた。

黒薩摩(黒もん)

白薩摩に対して、大衆用の日用雑器として焼かれていた陶器で、鉄分含有量が多い土を用いるため、黒くなる。
特に、黒ぢょかと呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに用いられる。

京薩摩・横浜薩摩

幕末に日本が開国すると、日本の陶磁器のうち美術的に優れたものは欧米へ輸出されるようになった。薩摩藩は1867年にフランスの首都パリで開かれた万博に薩摩焼を出展し、現地で好評を得た。
こうした背景から幕末から明治初期に掛けての京都で、欧米への輸出用に、より伝統的な日本のデザインを意識し、絵付けされた「京薩摩」が作られた。
横浜や東京で絵付けされ、横浜港から輸出されたものは「横浜薩摩」と呼ばれた。

薩摩焼は欧米で「SATSUMA」(サツマ=薩摩)と呼ばれた。
フランスではジャポニズムの流れの中で、日本画のようなデザインで鳥や植物を描くなど、薩摩焼の影響を受けた陶器が製作された。

壷屋焼

沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村その他で焼かれる沖縄を代表する陶器の名称。
登り窯を中心に灯油窯やガス窯なども用いながら伝統の技術と技法を受け継いでいる。

1682年、尚貞王の時代に、湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に統合して、新しい窯場が誕生した。これが現在の壺屋(つぼや、琉球方言でチブヤ)焼の草創である。
その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。

また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。
江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。

明治から大正にかけて壺屋焼は低迷期を迎える。
琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。

再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。
柳は、沖縄での作陶経験のある濱田庄司らとともに1938年初めて沖縄を訪問し、1940年までに4回来島した。金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。

今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らによるところが大きい。彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。

作品の特徴

壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付がされるものがある。

荒焼(沖縄方言でアラヤチ)

14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。
釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒い。
当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれる。
また魔除けで知られるシーサーも多くはこの荒焼である。

上焼(沖縄方言でジョウヤチ)

17世紀以降、朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器。
陶土に白土をかぶせて化粧し、色付けし釉薬を掛けて焼成したもの。
茶碗、皿、鉢、壺などの日用品、また沖縄独特のものとして泡盛酒器の抱瓶(携帯用)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)などがある。
多くは化粧後に彫刻紋様(釘彫り、もしくは線彫り)を施されるが、その他には、釉薬を垂らしながら描くイッチン、釘彫りしたあと面を削った面彫り、そこに白土を被せた象嵌なといくつかの手法がある。
描かれる絵柄は動植物、風景、抽象模様など多岐にわたるが、魚紋は特に数多く、壷屋焼の象徴となっている。
また数は多くないが、エキゾチックな異国船や異国人を描いたものもあり、異国人を描いたものはエジプト紋と呼ばれている。
荒焼に対して装飾性は強いが、これが上流階級だけでなく庶民向けでもあったため、民芸運動家らは驚き絶賛したという。

高田焼

熊本県八代市で焼かれる陶器で、八代焼(やつしろやき)ともいう。
焼き物には珍しい象嵌を施すところが特徴。

文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い豊前小倉藩主・細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。

寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。
これが高田焼の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。
明治25年(1892年)、窯を陶土の産地葦北郡日奈久へ移した。

初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。
現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。

高田焼の特徴

白土象嵌

高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。

小代焼

熊本県荒尾市、南関町、熊本市など県北部で焼かれる陶器。小岱焼とも表記し、いずれも正しい。

寛永9年(1632年)に豊前から転封された細川忠利が陶工の牝小路家初代源七、葛城家初代八左衛門を従え、藩主の命によって焼き物を焼かせたのが始まり。
粗めの陶土に、茶褐色の鉄釉で覆い、その上に藁や笹の灰から採った白釉や黄色釉を、スポイトや柄杓を使って流し掛けする、大胆かつ奔放な風合いの食器で知られる。

明治維新後は有田や瀬戸といった磁器産地に押され廃窯となってしまったが、昭和になって近重治太郎、城島平次郎らの努力によって復興を遂げ、戦後は小岱山麓にいくつもの窯が築かれるようになる。

平戸焼

長崎県佐世保市で生産される陶磁器である。
針尾島の網代陶石と肥後天草陶石を用いた白磁に藍色で絵付けがされた物に代表され、デンマークの博物館長を務めたエミール・ハンノーバーは、著書『日本陶磁器考』の中で「1750年から1830年の間の日本磁器の中では白色に光り輝く最高の製品」と称賛している。

豊臣秀吉が起こした朝鮮の役が終結した際、各地の大名は朝鮮の陶工を連れ帰った。
平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った。
慶長3年(1598年)、巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。
この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。
同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。
また、巨関は1622年ごろ、中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内である。
その後、慶安3年(1650年)に中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された。

代表作品

唐子絵

唐の子どもたち(唐子〈からこ〉)が唐扇を持ち、松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。
当時は、描かれた唐子の人数によって用途が異なっており、7人唐子は将軍家や朝廷への献上品で「献上唐子」とよばれ、5人唐子は公家衆と大名家、3人唐子は一般大衆用とされた。

透かし彫り

彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。
欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られる。その他色々な焼き物などで使われる技法として有名である。香炉や多宝塔などの作品がある。

卵殻手(薄胎)

その名が示す通り、光を通すほど薄く、網代陶石のみを使用・手作りで成型・起こし焼きで焼成したものでなければならない。
「箸より軽い茶碗を」という藩命で、相神浦(相浦)出自の池田安次郎が完成させた。
輸出先のヨーロッパでも「エッグシェル」と呼ばれ人気を博す。
第二次大戦後、製作が途絶えていたが、平成18年に平戸藤祥窯が復元。

亀山焼

江戸時代後期の長崎で作られた陶磁器のこと。
上質の白磁に中国から輸入された呉須による文人画風の絵付けが有名であるが、竹花氷裂文や石畳文など、長崎特有の異国情緒を感じさせる図柄も多い。
伊万里に比べ呉須が全体的に濃いのが特長である。
製陶期間が約50年と短く、伝世品が少ないことから幻の焼き物と呼ばれ、とくに上手のものは収集家の間で珍重されている。
銘は一重四角内に「亀山製」の文字を紋様化したものや、「崎陽亀山製」「亀山」など楷書や行書で記したものが散見される。
坂本龍馬の愛用茶碗は亀山焼である。

文化4年(1807年)、大神甚五平・山田平兵衛・古賀嘉兵衛・万屋古次吉によって長崎伊良林垣根山で開窯される。
創業資金は長崎奉行所産業御調方からの借入金でまかなわれた。
当初はオランダ船が需要する水甕を焼くための窯だったことから亀山焼と命名されたともいう。

ナポレオン戦争の影響で外来船の寄港が大きく減ったため水瓶の需要が減り水瓶事業は苦しくなった。長崎は天領であり長崎奉行の下、各藩ごとの陶工の一子相伝の技術を、平戸藩の三川内焼を始め、大村藩の波佐見焼、佐賀藩の有田焼等の高い技術を持った磁器の陶工達を呼び寄せる事が出来た。柿右衛門手の亀山焼きと言われる物もある、50年ほどの短期間の存在で有りながら名陶と呼ばれた。徳川幕府の天領で有った故水瓶を焼いていた陶器所が肥前地区の高い技術を持った磁器製造に転換可能となった。
原料の陶石は上質の天草陶石と佐世保市針尾網代の陶石を使用した。網代の陶石は三川内より長崎の奉行所宛に三川内の網代陶石枯渇の恐れが有ると使用を減らす様嘆願書が出ている。長崎県窯業技術センターの成分解析結も亀山焼きの網代陶石使用は否定出来ないの見解である。
他には中国の蘇州土を使用した。顔料も良質の花呉須を中国から取り寄せたこれも天領長崎故可能となったと思われる。

崎陽三筆と称される木下逸雲・祖門鉄翁・三浦梧門や当時豊後に居住していた田能村竹田など著名な文人が下絵を引き受け、文人画風の雅味のある絵付けとなった。

文政2年(1819年)には大神甚五平の単独経営となり、寛政・天保年間には全盛期を迎え、その品格の高さが評判となった。
天保10年(1839年)、大神甚五平が65歳で没し、二代目甚五平が窯を引き継ぐ。
慶応元年(1865年)3月、財政難のためついに廃窯となった。同年、小曽根乾堂の資金援助を受けて(小曽根と高田家の関連の確認は取れていない)亀山焼工場跡地を高田利平が購入。
同年から二年間、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となる。

また小曽根乾堂はその長子小曽根星海(晨太郎)に亀山焼の再興を託した。星海は明治24年(1891年)から32年(1899年)頃まで自宅邸内にて小曽根焼(鼎山焼)を開窯している。

長与焼

大村藩長与で浅井角左衛門らによって寛文7(1667)年に開窯される。一時中絶するが、正徳2(1712)年波佐見稗木場から陶工を招いて再興し、文化3(1820)年まで操業した。
三彩手の製品は特に見事な作品が見られます。

現川焼

長崎市(旧現川村)で1692年(元禄5年)に焼かれたのが始まりで、命名は地名に因む。
現川焼は鉄分の多い茶褐色の器肌が特徴であり、多様多彩な刷毛目と加飾が施されている。
刷毛目を用い,呉須,鉄砂,白土で一筆の絵付けを施すのが特色。
現川焼は京焼風の瀟洒な作風で高い評価がある。
江戸時代には「西の仁清」とまで謳われたことがあったものの、藩の財政面を理由に製造は約50年しか続かず、突如として現川焼は姿を消してしまった。
しかし明治時代になり十二代目横石臥牛が復活させ、佐世保市などでも製造されるようになった。

その他の古陶磁

京焼

現代に至る京焼の起源としては、近年の研究では、慶長年間初頭の1590年代末には生産が始まっていたと考えられている。
この時期以前の京都は、三条粟田口界隈に陶磁器の窯元が集中し、粟田焼が生産されていた。ただし、天正年間以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。

17世紀(江戸時代初期)に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。
具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人が京で作陶し、各産地の技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。
この頃、黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が京周辺の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。

京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永年間には粟田口で生産を行なっていた。ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。
同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。
これに続いて御室焼、御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、修学院焼なども作られた。

このような中、慶安3年(1650年)5月25日に金森重近(宗和)が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した伊万里焼(有田焼)以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。

野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず、製陶から手を引いた。しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。また、永樂了全より後の永樂家は保全、和全など優れた陶工を輩出し、千家に作品を納めて今日に至る。

技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の作品を多く残した。

京焼の著名作家

青木木米、永樂保全、永樂和全、尾形乾山、奥田頴川、高橋道八、仁阿弥道八、野々村仁清、三浦竹泉、久世久宝、清水六兵衛

京焼の主な例

清水焼・音羽焼・御室焼・粟田口焼・御菩薩焼・八坂焼

九谷焼

石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器である。

大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。
窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている。

「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。

祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。
五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。
青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。

これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。
有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。

東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。
1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。
その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された。

以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 – 1650年代の肥前産と考えられている。
しかし1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。

再興期

古九谷の廃窯から約1世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。
これらの窯の製品を「再興九谷」という。
同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で新たな陶石が発見され、今日まで主要な採石場となった。
これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

萩焼

山口県萩市一帯で焼かれる陶器。
一部長門市・山口市にも窯元がある。長門市で焼かれる萩焼は、特に深川萩(ふかわはぎ)と呼ばれる。

古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる焼き物である。
萩焼の特徴は原料に用いられる陶土とそれに混ぜる釉薬の具合によって生じる「貫入」と使い込むことによって生じる「七化け」がある。
貫入とは器の表面の釉薬がひび割れたような状態になることで、七化けとはその貫入が原因で、長年使い込むとそこにお茶やお酒が浸透し、器表面の色が適当に変化し、枯れた味わいを見せることである。

萩焼は慶長9年(1604年)に藩主毛利輝元の命によって、慶長の役の際、朝鮮人陶工、李勺光(山村家、後の坂倉家)李敬(坂家)の兄弟が城下で御用窯を築いたのが始まりとされる。
よって当初は朝鮮半島の高麗茶碗に似ており、手法も形状も同じものを用いていた。
坂家の三代までを古萩といい、萩焼の黄金時代である。
後に兄弟はそれぞれ別々の流派を生み出した。
明治期より苦境に立たされており、その時に休雪が休雪白という独特の作風を確立するなどして萩焼を中興している。
また、十二代坂倉新兵衛は萩焼を全国に広め不振衰退から救ったことにより、中興の祖と呼ばれている。

また、1875年(明治8年)には、萩の豪商であった熊谷五一が3ヶ月以上にわたって表千家の十一代千宗左を山口に招待したため、多くの弟子が表千家に入門した。
九州大学の宮地英敏准教授によると、このお礼として「一楽二萩三唐津」というキャッチコピーが広められたとしている。

益子焼

栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器。

江戸時代末期、嘉永年間に常陸国笠間藩(現笠間市)で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ・火鉢・壺などの日用品として製作されていた。
その後1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器・茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。
1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた。
また、イギリスの陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

特徴

砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。

益子焼の最も基本的な釉薬(ゆうやく)は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、犬毛筆で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りに特徴がある。
こうした昔ながらの施釉は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民芸運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。
他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い。

萬古焼

萬古焼は江戸時代中期に桑名の豪商沼波弄山によって生み出され、文人趣味によって発展した焼き物であった(古萬古)。
古萬古がいったん廃絶した後、各地で萬古焼の再興が試みられた。
四日市の萬古焼も、幕末期に再興されたもののひとつで、明治時代に地場産業として定着した。
以後、半磁器式の硬質陶器など新たな技術を用いた新たな商品が開発された。

萬古焼は、桑名の豪商沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736年〜1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向)で創始した。
弄山は自身の作品自身のブランド名である「萬古」の印を押した。弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれる。

萬古焼は京焼の技法に倣ったもので、茶碗の写し物から始まった。
やがて、華麗な色絵と異国趣味を特徴とするようになった萬古焼は江戸でも好評を博し、江戸小梅に窯を設け(江戸萬古)、弄山も江戸に移住するに至った。

安永6年(1777年)に弄山が没した後も続いたが、後継者がいなくないり萬古焼は一時途絶えた。

天保年間(1830年〜1843年)、桑名の陶器師森有節らによって萬古焼が再興された(有節萬古)。華麗な粉彩による大和絵の絵付と、木型成形法によって製造された斬新な急須は桑名の名物となり、桑名藩も製造を奨励した。