掛軸 中国画 | 買取品目 | 絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目掛軸 中国画

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元時代では、銭選、趙孟頫、黄公望、王蒙など。
明時代では、林良、呂紀、沈周、文徴明、陸治、唐寅、仇英、董其昌、張瑞図、藍瑛など。
清時代では、王時敏、王鑑、王翬、王原祁、呉歴、惲寿平、八大山人、斉白石、呉昌碩、趙之謙など。
民国時代では、張大干、徐悲鴻、李可染、林風眠などになります。
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    丁寧なご説明と仕分け

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掛軸 中国画の
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掛軸 中国画の買取について

中国絵画について

中国絵画史を大観的に見ると、中唐(8世紀)までは人物画・着色画が主体であり、山水画・水墨画が主要なジャンルになっていくのはそれ以降のことです。
水墨による山水画は文人(儒教的教養と道徳とを身に付けた、知識階層の人々)によって愛好されてきました。こうした文人によって制作され享受された絵画を文人画と言います。
文人画は北宋時代・11世紀頃からジャンルとして確立し、元時代には画壇の主流となりました。
明時代末の董其昌(とうきしょう)は、唐時代以来の山水画の歴史を、北宗画(職業画家系)と南宗画(文人画系)という2つの流れに分類したうえで、南宗画すなわち文人画が優れたものであり、北宗画すなわち職業画家の山水画は学ぶ価値のないものだとしました。明時代末の董其昌(とうきしょう)は、唐時代以来の山水画の歴史を、北宗画(職業画家系)と南宗画(文人画系)という2つの流れに分類したうえで、南宗画すなわち文人画が優れたものであり、北宗画すなわち職業画家の山水画は学ぶ価値のないものだとしました。
一方で、清時代にはそうした粉本主義に反発し、独自の個性的な画風を追求した画家たちも多数存在しました。

中国絵画の歴史の始まりは、器物の装飾や墓室の荘厳を離れて、独立した絵画作品がつくられるようになるのは秦・漢時代からと言われていますが、下記にまとめたものは、買取実績のある五代、宋、元、明、清、民国時代を対象としています。
中国における歴代の代表的な画家やその作品を時代別に分かり易く紹介しておりますので、中国絵画や掛軸の売却をお考えの方は参考にされて下さい。

五代・宋の絵画

宋時代は中国絵画史のピークであるとともに転換期でもあった。
唐時代までの絵画の主流は人物画であり、着色画であった。こうした伝統的絵画は、以後の時代にも引き続き制作されるが、宋時代には山水画と花鳥画の様式が確立され、なかんずく山水画が中国絵画を代表するジャンルとなった。

五代から北宋にかけては、山水における北方山水画と江南山水画、花鳥画における黄氏体と徐氏体(諸説あるが、前者は「富貴」、後者は「野逸」とされる)などの様式が確立し、各分野の絵画は筆法、構図などの面で大いに進歩し、後世に影響を与える多くの大家を輩出した。

山水画においては唐時代まで主流であった青緑山水画も引き続き制作されたが、この時代には士大夫の絵画としての水墨による山水画が主流となった。

唐末・五代の山水画家として、江南では「董源(とうげん)」、「巨然(きょねん)」、華北・中原では「荊浩(けいこう)」、「関同(かんどう)」の名が伝わるが、現存する彼らの作品はほとんどが模本か伝承作品である。

やや時代が下って北宋の初期から中期にかけての山水画家としては「李成(りせい)」、「范寛(はんかん)」、「郭煕(かくき)」らが著名である。

北方と南方の風土の差は画家たちの画風にも影響を与えた。荊浩らが描く北方の山水は、切り立った稜線とごつごつした岩肌が目立ち、これに対して、董源らによる江南の山水は、湿潤な大気に霞む穏やかな風景を描き出している。この時代には文人士大夫、すなわち儒教的教養のある支配階級が、絵画の享受および制作の主たる担い手となった。

北宋末には、書家としても知られる「米芾(べいふつ)」とその子の「米友仁(べいゆうじん)」の父子がある。米芾は書家としては宋の四大家に数えられ、画家としては米法山水の創始者として知られる。米法山水とは、堅い輪郭線を用いず、楕円形の墨点を重ねて形態や濃淡を表すものである。

宋時代を代表する文学者・書家である「蘇軾(そしょく)」も文人の余技として古木竹石などを描いている。

五代の後蜀と南唐には宮廷画院が設置されたが、宋朝も画院(翰林図画院)の制度を設け、画院の画家には待詔、祗候などの職位を与えて画業を奨励し、多くの宮廷画家が活躍した。
北宋末の徽宗皇帝は、為政者としては無能であったが、文化の振興、画院の改革に尽し、自らも筆を執って書画をよくした。

北宋時代の画家としては他に白描(墨の輪郭線のみによる描法)の人物を得意とした「李公麟(りこうりん)」が著名である。

南宋時代は前後の時代と異なり、文人画家よりも宮廷画院の画家が活躍した時代で、彼らによる、装飾性の豊かな花鳥画や、余白の美を生かした山水画が盛行した。こうした画院特有の作風を『院体』という。
山水では李成・郭煕らの主山を中心に据える構図に替わり、主たる景物を画面の片側に寄せて描く様式が盛行した。この様式は「馬遠(ばえん)」、「夏珪(かけい)」によって大成された。

院体の花鳥画は北宋の黄筌らの黄氏体(諸説あるが、輪郭線と彩色主体の描法とされる)の影響を受け、「李迪(りてき)」らの名手を生んだ。

南宋の画院系の著名画家としては、他に山水画の「李唐(りとう)」、減筆体の人物画で知られる「梁楷(りょうかい)」などがいる。

唐末から五代にかけての山水画家

唐時代までの中国絵画は彩色画が中心であり、山水画も青緑山水が主流であって、水墨の山水画が盛んになるのは宋時代以降のことである。
荊浩と関同は水墨山水を描いた初期の画家であり、後世への影響が大きかったが、彼らの作品の原本は現存しない。

荊浩

河南沁水の人(本籍については異説もある)で、字を浩然といった。
彼は『筆法記』という画論を書いており、次のような言葉を残している。
「呉道子の画山水には筆あれども墨なく、項容には墨あれども筆なし。吾は二子の長ずる所を采(と)りて一家の体を成すべし」。
すなわち、唐代の名画家・呉道子には線描の美はあるが水墨の美はなく、項容 (中唐の画家)には水墨の美はあっても線の美はない。自分は両者の良いところを採って、自分の画風を確立する」ということである。
『匡廬図』(きょうろず、台北故宮博物院)の伝承作品がある。
水墨山水で、中国北方の険しい岩山を描いたものである。

関同

『宣和画譜』『図画見聞誌』に「長安の人」とあるが、出身地は不明とする史料もある。
荊浩に学んだということ以外、詳しい経歴はわからない。
『秋山晩翠図』、『山谿待渡図』(ともに台北故宮博物院)などの伝承作品がある。
水墨山水で、中国北方の険しい岩山を描いたものである。

董源と巨然

董源と巨然は「董巨」と併称され、『江南山水画の祖』とされている。
伝承作品にみる董源と巨然の画風は、江南の霞のかかったような湿潤な風景を描いたもので、披麻皴(ひましゅん)という、麻の繊維をほぐしたような筆致で山の稜線などを描くのが特色である。

董源

10世紀頃の鍾陵(江西南昌)の人で、字を叔達といった。五代の南唐に仕え、後宛副使という職位にあったという。
現存する董源の伝承作品としては、画巻では『夏景山口待渡図巻』(遼寧省博物館)、『瀟湘図巻』(北京故宮博物院)、『夏山図巻』(上海博物館)、掛幅では『寒林重汀図』(日本・黒川古文化研究所)、『龍宿郊民図』(台北故宮博物院)がある。うち、『夏景山口待渡図巻』と『瀟湘図巻』は、もとは同じ画巻の一部であったものが分かれたものとみられる。
以上の伝承作品は、いずれも真蹟ではなく後人の模本とみなされている。

北宋末の文人画家・米芾(べいふつ)は、著書『画史』において、董源の画風を「平淡天真」であるとして高く評価した。

明末の文人画家・理論家として影響力の大きかった董其昌も南宗画(文人系の山水画)の祖として董源を高く評価している。

巨然(10世紀頃)

出身は、鍾陵(江西南昌)とも江寧(南京)ともいう。
彼は開封の開元寺の画僧で、伝承作品は『秋山問道図』(台北故宮博物院)のほかいくつかあるが、真蹟とみなされるものはない。
董源は生前にはさほど高名ではなかったが、北宋末(12世紀)頃から急に著名になり、文人山水画の祖として扱われるようになった。

北宋の初期から中期にかけての山水画家

李成と郭熙

李成と郭煕は「李郭」と併称され、『北方山水画の祖』とされている。

李成(10世紀)

長安の人で、字は咸熙(かんき)。唐の宗室の出で、五代末・宋初の混乱を避けて山東営丘に移った。
李成の事績については、画史の類には多く記録されるが、真蹟は現存せず、伝承作品も多くはない。
李成の画風について「墨を惜しむこと金のごとし」と評された。
現存する伝承作品には『晴巒蕭寺図』、『寒林図』(台北故宮博物院)、『読碑窠石図』(大阪市立美術館)、『喬松山水図』(日本、澄懐堂美術館)などがある。

北宋末の米芾は「李成の真蹟は2本しか見たことがないが、偽物は300本もある」と言っている。

郭煕(1023頃 – 1085年頃)

北宋後期の宮廷画家で、河陽温県(河南省)の人。字は淳夫。神宗の熙寧年間(1068 – 1077年)に図画院芸学となり、後に翰林待詔直長という地位についた。
理論家でもあり、画論『林泉高致』(『林泉高致集』)の著作がある。高遠(仰角視)・平遠(平面視)・深遠(俯瞰視)の三遠法は郭煕がこの書で述べているものである。
郭煕の『早春図』は、北宋山水画の真蹟として現存する数少ない作品の一つである。この作品は、光や大気の存在が的確に表現され、1つの画面に前述の高遠・平遠・深遠の3つの視点が共存するなど、北宋山水画の1つの完成形を示すものである。

范寛(10世紀後半 – 11世紀前半)

陝西華原の人で、字は中立という。一説に本名は中立で、性格が寛大だったため、范寛と呼ばれたという。
職業画家であったとみられ、詳しい経歴は不明である。当初李成画に学ぶが、それに飽き足らず、自然を師として研鑚を積み、自らの画風を築いたという。
『谿山行旅図』(台北故宮博物院)の作者として知られる。
『谿山行旅図』は、北宋山水画を代表する著名作で、近景の岩と道、中景の台地を画面下方に小さく表し、圧倒的な存在感をもつ遠景の主山が画面の大部分を占めている。山を下方から見上げて、その高さを強調する手法、すなわち「高遠山水」の典型的作品である。

北宋後期の文人画家

文同(1018 – 1079年)

北宋の文人画家。梓州永泰(四川)の人。
湖州(浙江呉興)の太守という地位にあった。もっぱら墨竹画を描いた。

蘇軾(1036 – 1101年)

北宋後期の政治家、書家、詩人。四川眉山の人。字は子瞻(しせん)、東坡居士と号した。
絵画は余技で、古木竹石などを描いた。

米芾(1051 – 1107年)

北宋後期の文人。山西太原の人。字は元章で、海嶽外史、襄陽漫士、鹿門居士などと号した。
徽宗に仕え、書画学博士であった。画家、書家、収集家、鑑識家として知られる。
画家としては、子の米友仁とともに『米法山水』(楕円形の点描が特色)の創始者とされている。
ただし、米芾の書作品は真筆が残るが、絵画作品については確実な遺品はない。

米友仁(1086 – 1165年)

米芾の子で、字は元暉(げんき)、懶拙老人(らんせつろうじん)と号した。
太原の出身だが襄陽、のち潤州(江蘇鎮江)に移り住んだ。
父の米芾と異なり、専門画家に近い存在であった。
作品は『雲山図巻』など数点がある。

その他の北宋画家(山水画系)

許道寧(きょどうねい、生没年不明)

北宋の山水画家。河間(河北)の人。長安で薬屋の客寄せのために絵を描いていた。
伝承作品に『秋山蕭寺図巻』(日本、藤井斉成会有粼館)、『秋江漁艇図巻』(ネルソン・アトキンス美術館)があり、作風は李成風である。

燕文貴(えんぶんき、生没年不明)

北宋の宮廷画院に属した山水画家。伝承作品に『江山楼観図巻』(大阪市立美術館)がある。

趙令穣(ちょうれいじょう、生没年不明)

北宋の山水画家で、宋太祖5世の孫。字を大年という。
「小景画」をよくした。小景画の語義は諸説あるが、近景・中景・遠景を大観的に描いた山水画に対し、近景を中心にした狭小な空間を描いた山水画を指すとされる。
伝承作品に『秋塘図』(大和文華館)がある。

王詵(おうしん / おうせん、生没年不明)

李成派の山水を描いた、北宋の余技画家。
伝承作品に『煙江畳嶂図巻』(上海博物館)など数点がある。

郭忠恕(かくちゅうじょ、生没年不明)

北宋における溌墨山水画の伝承者とされ、また界画を得意とした。
伝承作品として『雪霽江行図』(ネルソン・アトキンス美術館および台北故宮博物院)がある。

江参(こうしん、生没年不明)

北宋末から南宋初の山水画家。董源・巨然の江南山水画風を継ぐ数少ない画家の一人。
『林巒積翠図巻』(ネルソン・アトキンス美術館)、『千里江山図巻』の伝承作品がある。

花鳥画の『黄氏体』と『徐氏体』

宋時代の花鳥画の画風には『黄氏体』と『徐氏体』があるといわれているが、これら両者の画風の具体的差異は必ずしも明らかではない。
北宋・郭若虚の『図画見聞誌』によれば、当時の花鳥画について「黄家は富貴」「徐熙は野逸」と評価されていた。
通説では黄氏体は輪郭線と彩色主体、徐氏体は没骨体といわれるが、黄筌の作品は『珍禽図』(北京故宮博物院)が残るのみ、徐熙の作品は残っておらず、両者の実際の作風の差は不明である。
文献に照らしても、両派の作風にさほどの差異があったとは考えがたい。

黄氏体 五代の画家・黄筌(こうせん)とその一族の画風

黄筌(903年頃 – 965年頃)

四川成都の人で、前蜀の宮廷画家。

徐氏体 五代の画家・徐熙(じょき)とその一族の画風

徐熙(生没年不明)

鍾陵(江西省)の人で、生涯仕官しなかった。

徽宗とその他の花鳥画家

趙佶(ちょうきつ、1082 – 1135年)

北宋8代皇帝徽宗。
彼は為政者としては無能であったと評されるが、文化の振興には力を入れた。
各地から書画骨董を集め、『宣和画譜』などの宮廷所蔵品目録を作った。また宮廷画院の充実を図ったことでも知られる。
彼は自らも書画をよくし、書は痩金体(そうきんたい)という独特の細く鋭い筆線による書体を使用した。
絵については『搗練図』(唐・張萱の原画の模写、ボストン美術館)、『五色鸚鵡図巻』、『桃鳩図』(日本個人蔵)などの伝承作品があるが、鈴木敬は徽宗の画には代筆画が多く、真作はおそらく現存しないであろうと述べている。

趙昌(ちょうしょう、生没年不明)

北宋初期の花鳥画家。四川広漢(剣南)の人。
没骨の折枝画を得意とした。

崔白(さいはく、生没年不明)

北宋画院の画家。濠梁(安徽)の人。
熙寧期(1064 – 1077年)に画院の芸学の地位にあった。花鳥画をよくしたが、人物、山水も描いた。
代表作に『双喜図』(台北故宮博物院)がある。

呉元瑜(ごげんゆ、生没年不明)

徽宗の絵画の師であった画家。ただし、呉元瑜本人については、伝承作品もほとんどなく、画風も定かでない。

その他の五代・北宋絵画家

李公麟(りこうりん、1049 – 1106年)

北宋の画家。 安徽舒城の人。字は伯時。晩年、龍眠山に隠居したことから龍眠山人と号した。
王安石(政治家、詩人)や蘇軾(政治家、詩人、書家)と交友があった。
白描の人物画を得意とした。父の李虚一は多数の古画を収蔵しており、公麟はこれらを模写した。
伝承作品として『孝経図巻』(プリンストン大学美術館)、『五馬図巻』(東京国立博物館)などがある。

周文矩(しゅうぶんく、生没年不明)

五代・南唐の宮廷画家。金陵句容の人。人物画、特に仕女図をよくした。
伝承作品に『瑠璃堂人物図』(メトロポリタン美術館)、『重屏会棋図』(北京故宮博物院)がある。

南宋の山水画家

馬遠(ばえん、生没年不明)

南宋画院の山水画家。籍は山西にあったが、銭塘(杭州)に住んだ。
字は遥父、号は欽山。光宗・寧宗の時、画院待詔の地位にあった。
馬遠の家系には画家が多く、曾祖父、祖父、父、兄、子、伯父も画家であった。
斧劈皴(ふへきしゅん)を多用した山水を描いた。
代表作に『十二水図』(台北故宮博物院)、『華燈侍宴図』(台北故宮博物院)がある。

夏珪と共に『馬夏』と並称された。

夏珪(かけい、生没年不明)

南宋画院の山水画家。銭塘(杭州)の人。字は禹玉。
寧宗期(1194 – 1224年)の画院で待詔の地位にあった。水墨山水をもっぱら描いた。
代表作に『渓山清遠図』(台北故宮博物院)、『江山佳勝図』、『長江万里図』(模本)などがある。

馬遠と共に『馬夏』と並称された。

李唐(りとう、1050年頃 – 1130年頃)

北宋末から南宋の画院画家。河陽三城(河南孟県)の人。
徽宗の時に画院待詔の地位にあった。焦墨を用いた山水画に特色がある。
代表作に『万壑松風図』(ばんがくしょうふうず)、『江山小景図』(ともに台北故宮博物院)などがある。

馬麟(ばりん、生没年不明)

馬遠の子。寧宗の嘉泰年間(1201 – 1204年)に画院祗候の地位にあった。
山水のほか、父と同様の辺角構図の花鳥画をよくした。

その他の南宋画家

劉松年(りゅうしょうねん、生没年不明)

銭塘(杭州)の人。紹熙年間(1190 – 1194年)の画院待詔。
代表作に『四景山水図』、『羅漢図』(台北故宮博物院)などがある。

李迪(りてき、生没年不明)

孝宗・寧宗期の画院画家。河陽(河南孟県)の人。花鳥画をよくした。

梁楷(りょうかい、生没年不明)

東平の人。南宋になってからは銭塘に住む。
寧宗の嘉泰年間(1201 – 1202年)の画院待詔であった。
酒を愛し、性格は豪放で、自ら「梁風子」と称した(「風子」は「狂人」の意)。
減筆体(少ない筆のタッチで描く)の人物画に特色を発揮した。
代表作に『李白吟行図』(東京国立博物館)などがある。

蘇漢臣(そかんしん、生没年不明)

開封の人。北宋末から南宋初の宮廷画家。人物、特に子供の絵を得意とした。
台北故宮博物院の『秋庭戯嬰図』はヤジロベエ遊びに熱中する姉弟を描いたもので、蘇漢臣の作と伝えられる。

揚無咎(ようむきゅう、1097 – 1169年)

江西清江の人。字は補之(ほし)。梅花の絵を専門にした。

趙孟堅(ちょうもうけん、1199 – 1264年)

宋朝宗室の出身で、厳州太守という地位にあった。松竹梅蘭を主に描いた。

李嵩(りすう、生没年不明)

銭塘(杭州)の人。光宗、寧宗、理宗の画院で活動した。
人物を主に描くが、山水、花鳥画もある。

牧谿(もっけい、生没年不明)

南宋末の禅僧。理宗・度宗の時代に活動した。
臨安(杭州)長慶寺の僧で、俗姓は李(または薛)、法諱は法常で、牧谿は号。
禅僧の余技として山水、蔬果などを描いた。日本において特に評価が高い。
代表作に『写生蔬果図鑑』など。

元時代の絵画

元時代は、中国絵画史の上では復古主義の時代であり、文人画の時代であった。
時代を代表する画家としては、初期には「銭選(せんせん)」や「趙孟頫(ちょうもうふ)」、中期から末期にかけては『元末四大家』と称される「黄公望(こうこうぼう)」、「呉鎮(ごちん)」、「倪瓚(げいさん)」、「王蒙(おうもう)」がいる。
これら四大家の山水画は、後の明・清時代にも正統派絵画の規範とされた。

モンゴル人による征服王朝である元では、宮廷画家の活動の場であった画院の制度は廃止された。人民はその出自によって、蒙古人、色目人、漢人、南人などに序列分けされた。蒙古人とはモンゴル人、色目人とはウイグル人などの西域の民、漢人とは金の遺民である華北の住民、南人とは華南の住民、すなわち南宋の遺民を指す。すなわち、モンゴル人を最上に置き、多くの文人を輩出した江南の漢人は序列の最下位に置かれたのであった。南宋遺民の画家たちは、こうした異民族王朝の圧政の下、押さえつけられた内面の不満を芸術の追求へと向けた。

元時代の文人画家たちは、中国絵画の伝統の継承に努め、南宋時代を飛び越えて、ひと時代前の五代・北宋の山水画を範とした。

李郭派

北方山水画の李成・郭煕を規範とする者
朱徳潤(しゅとくじゅん)や唐棣(とうてい)など

董巨派

江南山水画の董源・巨然を規範とする者
元末四大家など

※董源・巨然から元末四大家を経て明時代の呉派へと至る江南山水画の流れは、明末の董其昌によって体系づけられ、文人画の本流とみなされることとなった。

元代には他に、道釈人物画で知られる「顔輝(がんき)」、南宋院体画の流れを汲む「孫君沢(そんくんたく)」のような画家もいるが、元代絵画の主流とはなっていない。

銭選(生没年不明、活動期13世紀後半 – 14世紀初)

浙江呉興の人で、元初の遺民画家である。字は舜挙(しゅんきょ)。
遺民とは、モンゴル人の征服王朝である元朝に仕えることを拒否した人のことで、銭選は南宋の科挙には合格したが、元朝には仕えなかった。
銭選の絵はほとんどが着色画で、作風は復古的であり、画面構成は平面的・装飾的である。山水画が多いが、人物画や花卉画もある。
代表作に『蘭亭観鵝図巻』(メトロポリタン美術館)など。

趙孟頫(1254 – 1322年)

湖州(浙江呉興)の人。字は子昂(すごう)。号は松雪道人(松雪老人)、水晶宮道人など。
宋の太祖の11代の孫という名門の出である。夫人の管道昇と子の趙雍も画家であり、元末四大家の1人である王蒙は外孫にあたる。
詩、書、画のいずれもよくした。絵は水墨山水画は李郭(李成・郭煕)に、青緑山水画は二李(李思訓、李道昭)に倣い、書は王羲之を学んだ。
元朝に仕え、官職は翰林院学士承旨に達した。宋の王室の出でありながら、異民族王朝の元朝に仕えたということで、趙孟頫の人物については評価が分かれる。
代表作に『鵲花秋色図巻』(台北故宮博物院)、『幼輿丘壑図巻』(プリンストン大学美術館)などがある。

元末四大家

黄公望(1269 – 1354?年)

江蘇常熟の人。旧姓は陸で、後に黄家の養子となる。字は子久で、大癡(だいち、「大馬鹿者」の意)、一峯道人などと号した。
若い時には仕官したこともあったが、ある事件に連座して投獄された後、仕官をあきらめて各地を放浪し、売卜(占い)で生計を立てたという。本格的に絵を始めたのは50歳を過ぎてからのこととされる。
画論『写山水訣』がある。絵の代表作には『富春山居図』(台北故宮博物院)がある。同図は長さ6メートルを超える画巻で、公望が晩年に隠棲した浙江富春郷の山水を描いたものであり、至正7年(1347年)から3年間をかけて完成した。
『富春山居図』を所持していた清時代の収集家・呉洪裕は、自らの死の直前に図を火にくべて燃やそうとしたが、焼失する前に絵は救い出された。しかし、その際に巻頭の部分が損傷して切断された。現在、浙江省博物館に所蔵される『剰山図』がその巻首部分であるという。

呉鎮(1280 – 1354年)

浙江嘉興魏塘鎮の人。字は仲圭で、梅花道人と号した。
元末四大家のうち他の3者は互いに交友があったが、呉鎮のみは他の文人と交わらず、孤高清貧の生涯を送った。
元末四大家の他の3者が水墨画・着色画の双方を描いたのに対し、呉鎮はもっぱら水墨の山水や墨竹を描いた。絵は江南山水画の董巨(董源と巨然)に倣う。
代表作に至正元年(1341年)の『洞庭漁隠図』(台北故宮博物院)などがある。

倪瓚(1301 – 1374年)

無錫の代々の富豪の家に生まれた。初名は珽(てい)で、後に瓚に改めた。字は元鎮で、雲林、荊蛮民、幻霞生などと号した。
瓚は早くに父を亡くし、長兄によって養育された。長兄の没後は28歳で家督を継いだ。家柄から、倪瓚の家には多数の書物や書画があり、文人との交友も多かった。しかし、50歳を過ぎて、家財を売り払い、各地を転々と放浪する生活を20年近くも続けた。
典型的な画風は「蕭散体」(しょうさんたい)あるいは「一河両岸」と称されるもので、モチーフを絞り、余白の多い画面を特色とする。近景に土手と数本の樹木や亭を描き、遠景に小さく山を配し、その間の中景を広い水面とする構図が典型的で、前述の「一河両岸」はこの構図に由来する。
代表作に至正15年(1355年)の『漁荘秋霽図』(上海博物館)、洪武5年(1372年)の『容膝斎図』(台北故宮博物院)などがある。

王蒙(1301または1308年 – 1385年)

湖州(浙江呉興)の人。字は叔明で、香光居士、黄鶴山樵などと号した。
元末四大家の中では唯一官途につき、理問という下級官吏であった。元の滅亡後は明に仕えたが、胡惟庸の獄に連座し、獄死した。
画風は倪瓚とは反対に、画面の下から上までモチーフを隙間なく積み上げ、細かく描き込むのが特色である。
代表作に至正26年(1366年)の『青卞隠居図』(せいべんいんきょず、上海博物館)などがある。

その他の元時代画家

高克恭(こうこくきょう、1248 – 1310年)

字は彦敬(げんけい)、号は房山。西域(新疆)籍の人で後に大同に移籍した。
主要な画家の大部分が江南から出ている元時代には珍しい、少数民族のウイグル系の人で、米芾父子に倣った山水画を描いた。

李衎(りかん、1245 – 1320年)

官僚文人画家で、河北薊丘(北京市)の人。竹石古木をよくした。

方従義(ほうじゅうぎ、生没年不明)

貴渓(江西)の人。道教信者であったというが、人物については不明な点が多い。
粗放な筆致の水墨山水を描いた。

曹知白(そうちはく、1272 – 1355年)

華亭(上海松江)の人。元代李郭派を代表する画人の一人。

柯九思(かきゅうし、1290 – 1343年)

台州仙居の人。もっぱら画竹の名手として知られる。

朱徳潤(しゅとくじゅん、1294 – 1365年)

河南睢陽(すいよう)の人(出身地は蘇州とも)で、崑山に住んだ。
元代李郭派を代表する画人の一人。

唐棣(とうてい、1296 – 1364年)

湖州の人。元代李郭派を代表する画人の一人。

張渥(ちょうあく、生没年不明)

出身は杭州とも淮南(わいなん)ともいう。白描の人物を得意とした。
代表作に『雪夜訪戴図』、『九歌図』などがある。

盛懋(せいぼう、生没年不明)

元時代後期の職業画家。浙江嘉興の人。

王冕(おうべん、? – 1359年)

浙江諸曁の人。科挙に失敗した後、故郷の九里山に隠棲し、もっぱら梅花を描いた。

王淵(おうえん、生没年不明)

杭州の人。活動年代は至元から至正(1335 – 1367年)。趙孟頫に師事した。
着色画、墨画ともにあるが、精緻な描線による花鳥画に特色がある。

明時代の絵画

明(1368 – 1644年)の時代には、宮廷画家、在野の職業画家、文人画家など、出身地も出自も画風も異なる多数の画家たちが活動した。
元代には廃止されていた宮廷画院の制度が明代には復活し、この時代の特に前期には多数の宮廷画家が活動した(ただし、宋時代にあった「翰林図画院」という名称は使われておらず、明の画院機構については不明の部分が多い)。
それとともに、明代は文人画の時代でもあり、「文徴明(ぶんちょうめい)」、「董其昌(とうきしょう)」をはじめ、多くの文人画家を輩出している。

明代の絵画は、宮廷画家・職業画家を中心とした『浙派(せっぱ)』と、文徴明(ぶんちょうめい)らの文人を中心とする『呉派(ごは)』の対立構図として説明されるが、明時代中期以降は浙派が衰え、呉派すなわち文人画系が優勢となった。

明時代の画派は複雑で、他に『江夏派(こうかは)』、『院派』などの分類を立てる場合もあり、いずれの派にも分類しがたい在野の職業画家も存在する。
他にこの時代の代表的な画家としては「唐寅(とういん)」、「仇英(きゅうえい)」、「徐渭(じょい)」らがいる。
明末から清初にかけての動乱期には、「呉彬(ごひん)」ら、明末の『奇想派』と呼ばれる、個性的な画風をもった一群の画家たちがいた。

浙派の「浙」とは杭州の古名であり、同地で活動した「戴進(たいしん)」を祖とみなし、これに続く宮廷画家・職業画家の一群を浙派と称する。

呉派(呉門派とも)とは明代中期以降、蘇州を中心に活動した文人系画家の総称である。「沈周(しんしゅう)」が呉派の祖とみなされ、文徴明とその親族や弟子らの一派も呉派に分類されている。

批評家の何良俊(かりょうしゅん)は、文徴明を高く評価し、画家を行家(こうか、職業画家)と利家(りか、素人画家)に分類し、利家すなわち文人の絵画を、職業画人の技巧的絵画よりも価値あるものとした。
批評家の高濂(こうれん)は、浙派末流の絵画を「狂態邪学」であるとして厳しく批判した。

このように文人画家を尊重し、職業画家をおとしめる価値観は、明末の董其昌によって、さらに理論化されている。明末の文人官僚・書家・画家・理論家であった董其昌は、実作者としても理論家としても、後世への影響が大きい。彼は唐時代以来の山水画の流れを北宗画(ほくしゅうが)と南宗画(なんしゅうが)の2つに分けて論じ、後者すなわち文人画家の系統を、前者すなわち職業画家の系統よりも上位に置く「南北二宗論」「尚南貶北論」(しょうなんへんぼくろん)を唱えた。
董其昌のこうした二元的な分類方法には矛盾点も指摘されているが、彼の理論が後世の中国絵画に与えた影響は絶大で、明の滅亡から300年以上を経た現代に至るまで浙派と呉派、あるいは北宗画と南宗画といった分類概念が使用され続けている。

明時代の実態としては、文人も生活のために売画をせざるをえず、職業画家の中にも詩文をよくする者がおり、文人画家の職業画家化、職業画家の文人化が不可避に進んでいた。また、董其昌自身の作品にも浙派(職業画家)の画法がみられるなど、生活実態の面でも、画風の面でも、文人画家と職業画家の区別は付けがたくなっていた。

明時代初期の画家

長江デルタ地帯に位置する蘇州では手工業が発達し、江南の商業・文化の中心地となって、元末期には多くの文人がここに集まっていた。至正16年(1356年)、張士誠は蘇州を根拠地とし、隆平府という名に改め、朱元璋(後の明太祖・洪武帝)に対抗して江南の覇権を争った。しかし、至正27年(1367年)に至って隆平府は陥落。翌至正28年(1368年)、朱元璋が即位して国号を大明とし、元号を洪武とした。

猜疑心の強い性格であった朱元璋は、建国の功臣らを次々と粛清したことで知られる。貧農の出で孤児であった朱元璋は文人を憎み、特に、最後まで明朝に抵抗した蘇州の文人には容赦なく、多くの文人、画人が刑死・獄死に追いやられた。

元末四大家の1人で、明初まで活躍していた王蒙は、胡惟庸の獄に連座して獄死した。元末から明初にかけて活動した山水画家の趙原も刑死している。

明初の洪武年間には宮廷画院の存在は明確でなく、明の画院が本格的に形成されるのは後の永楽・宣徳年間(1403 – 1424年)になってからである。

元末から明初期に活動した主要な画家

趙原(ちょうげん、生没年不明)

山東の人で、元末から明初に蘇州で活動した。洪武帝の時に刑死している。
画風は元末四大家の王蒙に倣う。

王履(おうり、1332 – ?年)

江蘇昆山の人。『華山図』(全40図、紙本墨画、北京故宮博物院・上海博物館分蔵)で知られる。
本業は医学者で絵画は余技である。
51歳の時に陝西の名山・華山に登り、その感動を40枚の絵に描きとどめ、自跋を付した。明代中期以降栄える呉派文人山水画の先駆として重要な作品である。

謝縉(しゃしん、生没年不明)

江蘇呉県の人。董源、巨然、王蒙に師法した山水画を残した。

夏㫤(かちょう、1388 – 1470年)

「㫤」の漢字は、正しくは「日」の下に「永」である。江蘇昆山の人。画竹をよくした。

杜瓊(とけい、1396 – 1474年)

江蘇呉県(蘇州)の人。山水と詩文をよくした。
呉派の祖である沈周に影響を与えている。

劉玨(りゅうかく、1410 – 1472年)

呉派の祖である沈周に影響を与えた。

王紱(おうふつ、1362 – 1416年)

無錫の人。官に仕え中書舎人(主に能書が任命される)に任じられた。
元末四大家の倪瓚風の疎体の山水を描く。

姚綬(ようじゅ、1422 – 1495年)

浙江嘉善の人。画風は元末四大家の呉鎮に倣う。

明時代の宮廷画家

「李在(りざい)」、「林良(りんりょう)」、「呂紀(りょき)」らの宮廷に仕えた画家を宮廷画家あるいは画院画家と称する。ただし、宋代と異なり明代においては翰林図画院という名称の機関は設置されず、画家は宮中の仁智殿、武英殿などに属して、待詔(たいしょう)、供奉(きょうほう)などの官職を与えられた。
宋代の画院では画家には武官の官位が与えられたが、明代もこれに習って、画家には錦衣衛(近衛軍)の指揮、鎮撫、総旗などの官位が与えられることが多かった。たとえば、呂紀は武英殿待詔で錦衣衛指揮であった。
明初の洪武年間には宮廷画院の存在は不明確であり、記録や画家自身の記した款記から画院の存在が明確になるのは永楽年間(1403 – 1424年)からである。
明代の宮廷画院については、史料が乏しく、その機構、性格、成立時期、存続期間など、不明の部分が多い。前述の、画家に対する錦衣衛の官職任命についても、なぜ任命されたのかを含め、よくわかっていない。

この時期の宮廷画家としては「辺文進(へんぶんしん)」、「李在」、「周文靖(しゅうぶんせい)」、「孫龍(そんりゅう)」、「倪端(げいたん)」などが挙げられる。これらの宮廷画家らの出身は浙江、福建方面に集中していた。

明中期の天順(1457 – 1464年)、成化(1465 – 1487年)、弘治(1488 – 1505年)年間には「林良」、「呂紀」、「呂文英(りょぶんえい)」、「王諤(おうがく)」、「朱端(しゅたん)」、「陳子和(ちんしか)」などが宮廷画家として活動した。これらの画家の出身は、林良が広東、呂紀が湖南寧波であるなど、さまざまである。
※明後期には画壇の主流は文人画に移り、「沈周」、「文徴明」、「董其昌」やこれらの一派が活躍することになる。

辺文進(生没年不明)

字は景昭。福建沙県の人(本貫は甘粛)。永楽年間(1403 – 1433年)の宮廷画家で武英殿待詔の地位にあった。
工筆重彩の花鳥画をよくした。

李在(生没年不明)

福建莆田の人。宣徳年間(1426 – 1435年)の宮廷画家。仁智殿待詔の地位にあった。
山水をよくした。日本の雪舟が明に滞在した際に交流があった。

周文靖(生没年不明)

福建莆田の人。宣徳年間(1426 – 1435年)の宮廷画家。
占師として宮廷に入り、後に画才が認められて画家となった。
作品には宮廷画家であることを意味する『日近清光』印を有するものがある。

孫龍(生没年不明)

江蘇毗陵(常州)の人。宣徳年間(1426 – 1435年)の宮廷画家。
没骨画法の花鳥をよくした。なお、同時代に孫隆という画家が存在し、孫龍・孫隆は同一人とする説と、別人が音通のため混同されたとする説とがある。

林良(生没年不明)

広東南海の人。景泰・天順・成化年間(1450 – 1487年)の宮廷画家。
浙派風の写意の水墨花鳥をよくした。

倪端(活動期1435 – 1480年)

宣徳・成化年間の宮廷画家。
成化16年(1480年)に錦衣衛指揮同知の地位にあったことが知られる。

呂紀(1477 – ?年)

上海同四明(浙江寧波)の人。弘治年間(1488 – 1505年)の宮廷画家。
職位は錦衣衛指揮に至った。装飾的画面の花鳥をよくした。

呂文英(生没年不明)

浙江括蒼の人。人物画をよくした。

王諤(生没年不明)

浙江奉化の人。弘治・正徳・嘉靖年間の宮廷画家。
職位は錦衣指揮に至った。

朱端(生没年不明)

浙江海塩の人。弘治・正徳年間(1488 – 1521年)の宮廷画家。
職位は錦衣指揮に至った。

陳子和(生没年不明)

福建浦城の人。山水、人物、花鳥のいずれもよくした。

戴進、呉偉と『浙派』

戴進(1388 – 1462年)

浙江銭塘(杭州)の人。字は文進。父も画家であった。永楽・宣徳年間に宮廷画家となったが、画家仲間の謝環との確執により帝の怒りを買って、命からがら帰郷し、以後は売画によって生計を立てたと伝える。
山水、人物、花鳥のいずれも得意とした。技法は南宋の院体画、元の李郭派、遠くは五代・北宋の董源、巨然を学んだ。

戴進の画風は、これら先人の様式に浙江地方様式を加味したものであるが、南宋院体画の自然主義的描写に比べると、平面化・装飾化の傾向があり、山水は斧劈皴(ふへきしゅん)が目立ち、筆法は粗放に向かっている。

沈周、文徴明らの呉派に対して、戴進の一派やその系統の画家らを総称して浙派という。

浙派という名称は後になって(明末頃)付けられたもので、派名は戴進が浙江銭塘の出身であることに由来する。戴進は、行家(職業画家)とその画風を代表する存在であることから浙派の祖とみなされているが、実際には浙派に分類される画家たちは出身も画風もさまざまであり、呉派の文人画と一線を画すさまざまな画家を大雑把に分類したものが浙派であるといえる。

弘治・正徳年間(1488 – 1521年)の浙派に分類される画家たち、具体的には「張路(ちょうろ)」、「蒋嵩(しょうすう)」、「汪肇(おうちょう)」、「鄭顛仙(ていてんせん)」、「鍾礼(しょうれい)」らはいずれも粗放な筆致の水墨による画面構成を特色としており、こうした画風は、後の理論家によって『狂態邪学』として攻撃の的になった。
明中期のこの頃を境に浙派は衰え、明後期は後述の呉派が全盛となった。

「明代の宮廷画家」の節で取り上げた以外の『浙派』系の画家

※呉偉を『江夏派』として浙派とは別扱いにする論者もおり、分類は絶対的なものとは言えない。

呉偉(1459 – 1508年)

湖北江夏の人。成化から弘治年間にかけて、3度にわたり宮廷出仕と帰郷を繰り返した。
孝宗からは『画状元』の印を授かったが(状元とは科挙の首席合格者の意)、性格の激しさから権力者と衝突し、在野で売画生活を続けることが長かった。
呉偉の画風にはかなりの振幅があり、若い頃の丁寧で緻密な画風が中期・晩期には粗放さを増した画風に変化している。

張路(1464? – 1538?年)

祥符(河南開封)の人。嘉靖年間頃に活動した。粗放な筆致の人物・山水をよくした。

蒋嵩(生没年不明)

金陵(南京)の人。正徳・嘉靖年間(1506 – 1566年)に活動した在野の画家。

汪肇(生没年不明)

安徽休寧の人。正徳年間に活動。

鄭顛仙(生没年不明)

福建の人。経歴はほとんど不明だが、山水人物図、龍虎図などが残る。

鍾礼(生没年不明)

浙江上廬の人。字は欽礼。南宋院体風の山水をよくした。

沈周、文徴明と『呉派』

沈周(しんしゅう、1427 – 1509年)

蘇州府呉県相城里の人。字は啓南。石田(せきでん)と号し、別号を白石翁といった。呉派の祖とみなされる。
沈家は代々の名家で、父の沈恒、伯父の沈貞も画家であり、沈周は父を継いで糧長(徴税官)の地位にあった。ただし、所伝のとおりとすると数え年15歳で糧長に就任したことになり、実際に彼が徴税業務を行っていたかどうかは疑問視されている。
絵は董源、巨然、元末四大家のうちの黄公望、呉鎮を学んでいる。

文徴明(1470 – 1559年)

明代を代表する画家で文化人である。
曽祖父の代から蘇州に定住していた名家の出で、父は温州知府を務めた。徴明は初名を壁または璧といい、徴明は字であったが、後に字を徴仲と改めた。衡山、停雲生などと号する。
詩文書画のいずれにも通じ、詩は呉寛(1435 – 1504年)、書は李応禎(1431 – 1493年)に学んだという。
絵は沈周に師法し、元末四大家、とりわけ王蒙と倪瓚の影響を受けている。なお、沈周とは交流があり、影響を受けたことは確かだが、師・弟子の関係であったかどうかは定かでない。
画風は平明で、淡彩、淡墨、擦筆を好んで用いるが、晩年には作風が変化し、王蒙風の細かく描き込んだ余白の少ない画面になっている。
科挙に10回落ちた後、嘉靖2年(1523年)、歳貢生として北京に行き、翰林院待詔に任じられた。しかし、その3年後に辞職して帰郷し、以後は自適の生活を送って、90歳で没した。
子の文嘉(ぶんか)、甥の文伯仁(ぶんはくじん)も著名な画家である。

沈周、文徴明に加え、「陳淳(ちんじゅん)」、「陸治(りくち)」、「文伯仁」、「居節(きょせつ)」など周辺の画家を含めた一派を、蘇州の古名の呉をとって『呉派』と呼んでいる。

呉派は宋元以来の文人画の系列に位置づけられ、浙派の行家(職業画家)に対して呉派は利家(文人画家)とされている。画風的には浙派が水墨の濃淡を主調とし、筆法に粗放な部分があるのに対し、呉派は水墨に淡彩を交えた技法を主体とする。

陳淳(1483/1484 – 1544年)

江蘇呉県の人。文徴明に師事した。写意的な花鳥をよくした。

陸治(1496 – 1576年)

呉県(蘇州)の人。文徴明の弟子。山水や着色花鳥画を得意とした。

文伯仁(1502 – 1575年)

文徴明の甥。多くの後継者を出した文氏一族の中でももっとも有力な画家とされる。
画面の隅々まで白描風の墨線で細かく描き込んだ、王蒙風の山水画を描いた。

居節(1527 – 1586年)

蘇州の人。文徴明の弟子。徴明の影響の大きい山水画を残した。

その他の明中期の画家

沈周、文徴明と並び『明の四大画家』と称されるのは、文徴明と同年生まれの「唐寅(とういん)」と、一世代後の職業画家である「仇英(きゅうえい)」で、ともに蘇州で活動した。かつては、唐寅、仇英らを『院派』として区別することもあった。

やや時代が下る「徐渭(じょい)」は、激しい内面を奔放な水墨に表した個性的な画家として知られる。他に浙派、呉派のいずれにも分類しがたい画家として、「謝時臣(しゃじしん)」、「周之冕(しゅうしべん)」、「史忠(しちゅう)」、「郭詡(かくく)」らがいる。

唐寅(1470 – 1523年)

字を伯虎という。号は六如居士など。
弘治11年(1498年)、応天府(南京)の解元(郷試の首席合格者)となったが、翌年の北京の会試(中央の科挙)では不正事件に連座して仕官の途をあきらめ、以後は売画によって生活した。
自ら「江南第一の風流才子」と称する多趣味で奔放な性格で、奇行も多かったという。
絵は沈周に学び、元末四大家のほか南宋画院の馬遠・夏珪の影響も受けている。人物、山水、花鳥のいずれもよくした。

仇英(1494? – 1552年?)

字を実父、号を十洲という。江蘇太倉の出身で、のち蘇州で活動した。
若い時は漆職人であった。絵は周臣に学び、青緑山水や人物をよくした。写実的で精緻な山水・人物の他に、粗放な筆致の水墨画もある。

徐渭(1521 – 1593年)

字は文清のち文長、天池山人、青藤道士と号した。
浙江山陰(紹興)の人で、絵のほか詩文、書をよくし、戯曲も書いた。
妻殺しで下獄するなどの数奇な人生を送った人物で、溌墨による写意の花卉画に本領を発揮した。内面の葛藤を画面にぶつけるような激しい筆致の水墨画を残した。

謝時臣(1487 – 1557年以後)

呉県(蘇州)の人。文徴明、周臣、仇英らと交友があった。
画風は沈周(呉派)、戴進(浙派)を折衷した様式。

周之冕(生没年不明)

江蘇長洲(呉県)の人。花鳥画をよくした。

史忠(1436? – 1519?年)

またの名を徐端本という。金陵(南京)出身の文人画家。画風は南宗画系。
沈周と交友があったが作風は異なる。

郭詡(1456 – 1529年以後)

江西泰和県の人。写意的な人物画を描いた。

董其昌と南北二宗論

明後期の理論家である何良俊(1506 – 1573年)は文徴明を敬愛していた。何良俊は『四友斎叢説』等の著作の中で、行家(職業画家)に対する利家(文人画家)の優位を説き、絵画において大切なものは「韻」であるとした。
絵画には手先の技術だけではなく、それを描いた人の人格、気品が現れていることが肝要であり、したがって文人、つまり教養と徳のある人物の描いた絵が優れているとする。また、利家が技術を学ぶことによって行家を兼ねることはできるが、逆に行家が利家を兼ねることはできないとした。

高濂(16世紀後半)は、弘治・正統年間の浙派の粗放な筆法、具体的には張路、蒋嵩、汪肇、鄭顛仙、鍾礼らのそれを「狂態邪学」という厳しい言葉をもって批判した。

この時期には、「利家 = 呉派 = 文人画」が「行家 = 浙派 = 職業画家」よりも上に位置付けされ、その後、董其昌の『南北二宗論』に引き継がれていく。

董其昌(1555 – 1636年)

江蘇華亭(松江)の人。字は玄宰、号は思白、香光居士。
万暦17年(1589年)首席進士となり、職位は礼部尚書(文部大臣相当)にまで上がった。
『画旨』『画禅室随筆』などの著書があり、明末期の画家、書家、理論家として、その後の中国絵画に実作、理論の両面で多大な影響を与えた人物である。
董其昌にとって絵画とは「古人に倣う」ものであり、五代〜北宋の董源・巨然、宋の米芾・米友仁、元末四大家らの文人画系列の絵画を学ぶべきものとした。また、画家にとって「万巻の書を読み、千里の路を行く」ことが必要であり、「天地を以て師となす」「心を以て物を写し、丘壑(きゅうがく)は内に営む」べきであるとした。
董其昌の絵画は、抽象的・構成主義的であることが指摘されている。
董其昌は多くの作品を紙に描いているが、これは、白い画面上の黒の線による構成をより際立たせるためには絹よりも紙が効果的であるためだといわれている。

董其昌はまた『南北二宗論』を唱えたことで著名である。

南北二宗論

唐時代以来の絵画の流れを北宗画と南宗画に分けたものである。
董其昌は南宗画、すなわち利家(文人)の画に価値を置き、行家(職業画家)の絵である北宗画は学ぶ価値がないとした。
董其昌の与えた影響は大きく、南宗画・北宗画という分類法は数百年後の今日まで中国絵画の見方を規定している。

北宗画

唐の李思訓・李昭道の青緑山水画に始まり、宋の趙幹・趙伯駒(ちょうはくく)・趙伯驌(ちょうはくしゅく)を経て南宋画院の馬遠・夏珪に至る流れ。

南宗画

唐の王維の渲染のある水墨山水に始まり、荊浩、関同、董源、巨然を経て、宋の米芾・米友仁、元末四大家に至る流れ。

明末の画家たち

明末の動乱期にはさまざまな個性をもった画家が多数登場した。

「呉彬(ごひん)」は独特のデフォルメされた形態をもつ山水で知られる。「丁雲鵬(ていうんぽう)」は道釈人物(仏教と道教の人物)を得意とした。「陳洪綬(ちんこうじゅ)」は独自の人物画で知られ、花鳥画もある。「崔子忠(さいしちゅう)」も人物画で知られ、陳洪綬とともに『南陳北崔』と称された。
他にも「米万鍾(べいばんしょう)」、「藍瑛(らんえい)」、「李流芳(りりゅうほう)」、「張瑞図(ちょうずいと)」、「倪元璐(げいげんろ)」、「趙左(ちょうさ)」、「沈士充(しんしじゅう)」、「蕭雲従(しょううんじゅう)」など多くの画家がいる。

彼らの多くは職業画家でもある文人で、画風もそれぞれ個性的である。こうしたことから、「利家 = 呉派 = 文人画」「行家 = 浙派 = 職業画家」という二項対立の図式は明末においてすでに崩れていることがわかる。

呉彬(活動期間1601 – 1626年)

福建莆田の人。もと職業画家で、1601年に南京に出て宮廷に仕えたが、宦官の魏忠賢を批判したかどで捕えられ、以後の動静は知られていない。
奇怪な形態の山水を描いた。

丁雲鵬(1547 – ?年)

安徽休寧の人。道釈人物画をよくし、詩文や仏像製作にも携わった。

崔子忠(? – 1644年)

山東莱陽の人。着色の故事人物画をよくした。
貧窮のうちに孤高の人生を送り、1644年、明が滅亡すると、最期は土室に籠って餓死したという。

陳洪綬(1598 – 1652年)

浙江諸曁の人。独特の風貌の人物画を描いた。
明の宮廷に出仕したこともあるが、社会の腐敗に憤り帰郷。
1644年の明滅亡後、1646年に一時出家するが、のち還俗した。
悔遅(かいち)、老遅(ろうち)などと号したが、これらの号には明の滅亡後も生き残ってしまった(死に遅れた)との思いが込められている。

米万鍾(1570 – 1628年)

長安の人。山水画と書をよくし、書は董其昌と並んで『南董北米』と称された。

藍瑛(1586 – 1664/1666年頃)

銭塘(杭州)の人。浙派の山水画は藍瑛によって終わると評されている。

李流芳(1575 – 1628年)

安徽歙県の人で江蘇嘉定に住んだ。金箋に淡墨を用いて独特の効果を出した。

張瑞図(1570 – ?年)

福建の人。書家としても知られる。
絹の代わりに絖本(こうほん、サテン)を用いて独特の墨色の効果を出した。

趙左(1573 – 1644年)

華亭(上海松江県)の人。呉派文人画の諸派の中で蘇松派の祖とされる。
董其昌と親交があり、その代作も行ったことが知られる。

沈士充(生没年不明)

呉派文人画の諸派の中で雲間派と称される。趙左に師事する。

蕭雲従(1596 – 1673年)

安徽蕪湖の人。崇禎期(1628 – 1644年)に副貢生という地位にあったが、清朝には仕えなかった。
山水画をよくし、倪瓚・黄公望を師法した。呉派文人画の諸派の中で姑孰派と称される。

清時代の絵画

清時代は、明王朝が崩壊し順治帝が即位した1644年から、1840年のアヘン戦争を経て、1911年の辛亥革命に至る激動の時期にあたる。明時代の末期、朝廷は政争に明け暮れ、農民の反乱が頻発し、明王朝は混乱と衰退のさなかにあった。1644年に農民反乱のリーダーである李自成が崇禎帝を自死に追い込むが、李自成の天下は40日しか続かず、北京は満州族に制圧され、満州族の国である清が中国最後の統一王朝となった。清は満州族独特の髪型である辮髪を強要したが、それ以外の面では漢民族の文化や政治制度を引き継いだ。科挙による官吏登用も引き続き行われ、宮廷画家も任命された。

清時代の画壇は、董其昌の流れを汲む正統派と、明の遺民による個性派の画家たちのグループに二分されている。明の遺民とは、異民族の王朝である清に仕えることを潔しとせず、明王朝への忠誠心と清王朝への反抗的精神をもって生きた人々である。この中には異民族の風習である辮髪を強要されることを嫌って、出家・剃髪して僧となる道を選んだ者もいた。清代の画家の中に、「八大山人」、「石濤(せきとう)」などの僧籍にあった者が多いのはそのためである。

清代画壇の正統派とは、明代の文人画の呉派や董其昌の流れを汲む画家たちで、古人の筆法に倣って作画することを旨とするため倣古派ともいう。

「王時敏(おうじびん)」、「王鑑(おうかん)」、「王翬(おうき)」、「王原祁(おうげんき)」の4人の王姓の画家がその代表で、彼らを『四王』といい、これに「呉歴(ごれき)」と「惲寿平(うんじゅへい)」を加えて『四王呉惲』(しおうごうん)ともいう。

一方で、古典の学習よりも画家個人の個性の表現を重視する画家もこの時代には多かった。
清初に南京で活動した「龔賢(きょうけん)」らの『金陵八家』や、清中期の揚州で活動した「鄭燮(ていしょう)」らの『揚州八怪』と称される画家たちが著名である。

1840年のアヘン戦争以後、清は海外列強に蹂躙されて弱体化し、太平天国の乱(1850年〜)などの国内の不穏な動きが混乱に輪をかけた。
こうした世相のもと、国際通商港であり、外国への窓口であった上海には、沈滞した絵画界を革新しようとする画家たちが集まり、海上画派と呼ばれた。
「虚谷(きょこく)」、「趙之謙(ちょうしけん)」、「任頤(じんい)」、「呉昌碩(ごしょうせき)」らがその代表格である。
趙之謙、呉昌碩の両名は、金石(金属器や石碑などに刻まれた文字)を学び、詩書画篆刻のいずれも得意としたことから、『金石画派』の名もある。
伝統画法に近代性を加味したこれらの画家は清王朝の最後を飾り、近代への橋渡しをした。

辛亥革命(1911年)以後、中華民国成立後は、ヨーロッパ、日本などへの留学経験者が画壇で活躍した。また、上海をはじめ各地に美術学校が設立された。こうして、従来の文人士大夫画家に替わって、海外留学組や『学校派』と呼ばれる美術学校出身者が画壇の中枢を占めるようになった。国画(中国の伝統絵画)の伝統と西洋絵画の技法をいかに融合させるかということが近代中国画家の共通して直面するテーマとなった。

四王呉惲

王時敏(1592 – 1680年)

江蘇太倉の人で、字は遜子、号は烟客。万暦29年(1601年)の進士である。

王鑑(1598 – 1677年)

王時敏と同じ江蘇太倉の人で、字は元照、のち円照、号は湘碧、染香庵主など。崇禎6年(1633年)の挙人である。

※王時敏、王鑑の両名とも名家の出身で、両者の祖父はともに高名な文人であり(王鑑の祖父は王世貞)、両家には学ぶべき古画が多数所蔵されていた。
ともに董其昌に師事した。明末には官を辞して自適の生活を送り、清朝には仕えなかった点も両者に共通する。

王翬(1632 – 1717年)

太倉の近くの江蘇虞山(常熟)の出身で、字は石谷、号は耕烟山人、清暉主人。
王翬は、20歳の時に王鑑に見出され、王時敏に師事した。古画の模写を得意とし、若い時は王時敏について古画の所蔵家を歴訪し模写に励んだ。
後には画聖と呼ばれ、康熙30年(1691年)、60歳の時には康熙帝の南巡(江南地方視察)の記録画の作成を命じられ、2年かけて12巻の大作を完成させた。

※王翬のみは他の3名のような名門の出ではない。

王原祁(1642 – 1715年)

王時敏の孫。字を茂宗、号を震台という。
祖父王時敏の指導で幼少期から絵を学んだ。王時敏は「元末四大家の精神を伝えたのは董其昌、形を伝える点では自分(王時敏)も負けていないが、精神と形をともに伝えるのは王原祁だ」と称揚した。
王原祁は康熙9年(1670年)の進士で、宮廷画家となり、康熙帝の信任が篤かった。

呉歴(1632 – 1718年)

江蘇常熟の人。字は漁山、号は墨井道人。
絵を王時敏に学ぶ。家族を失った後、仏教、続いてキリスト教に入信し、マカオでキリスト教の宣教師として活動した。ただし、画風には西洋の影響はみられない。

惲寿平(1633 – 1690年)

江蘇武進(常州)の人。初めは名を格、字を寿平といったが、後に寿平を名とし、字を王叔と改めた。号は南田。
山水画もあるが、没骨彩色の花卉画を得意とした。

四僧

清代初期に活動した画家の中には、正統派の『四王呉惲』とは別に、個性的な画風を持った一群の画家がいた。
このうち、出家して僧籍にあった「八大山人」、「石谿(せきけい)」、「弘仁(こうじん)」、「石濤(せきとう)」の4名を四僧と称する(八大山人は後に還俗した)。

八大山人(1626 – 1704/1705年)

弋陽府(よくようふ、江西南昌)の人で、明宗室の後裔である。俗姓は朱。画家として  は朱耷(しゅとう)とも称されるがこれは通称で、譜名(系図上の名)は朱統𨨗(𨨗の  漢字は「林」の下に「金」)、僧名を伝綮(でんけい)、字を刃庵といった。
八大山人は晩年の号で、この名でもっともよく知られるが、他に雪个・个山・人屋とも号した。
19歳の時に明が滅亡したが、彼は僧となって難を逃れた。50歳代のある時、精神を病んで僧衣を引き裂いて還俗し以後は貧窮の中で画作を続けた。反骨精神を筆に託し、明の徐渭などの写意の花鳥画をもとに、晩年に至って独特の画風を作り上げた。
代表作は1694年(69歳)作の画帖『安晩冊』(京都・泉屋博古館)で、山水、花鳥、蔬果、虫魚などの伝統的モチーフによりながら、意表を突いた構図、一気呵成に引かれた線などに独自の世界を見せる。

石濤(1642 – 1707年)

広西全州(桂林)の人。本名は朱若極、出家後の法名は原済。石濤は号である。大滌子(だいてきし)、苦瓜和尚(くかわしょう)などとも号した。
明の王族の末裔であり、明滅亡期に父を殺害された。後に出家し江南を遍歴。康熙帝の南巡(江南地方視察)の際に帝に謁見し、北京の宮廷に招かれて3年ほど滞在したこともあった。
晩年は揚州に定住し、売画で生活した。黄山などをテーマとした山水画を描いたが、画風は北宗画・南宗画のいずれにも属さない「我法」(先人に倣わず、自らの画法で描くこと)にこだわった。
上述の八大山人とは、直接会ったことはないが、石濤から八大山人に送った書簡が残っており、間接的ながら両者の合作の絵もある(八大山人の描いた蘭に石濤が竹石を描き足したもの)。
石濤の画名は生前から高く、そのために偽物が非常に多いことで知られる。
代表作は『廬山観瀑図』『黄山八勝図冊』『黄山図巻』(以上3点は京都の泉屋博古館蔵)など。

石谿(1612 – 1692年頃)

湖南武陵(常徳)の人。出家後の法名は髠残(こんざん)、俗姓は劉。石谿は字である。
明初の四僧の中ではもっとも本格的な仏教者である。渇筆を用いた王蒙風の山水をよくした。

弘仁(1610 – 1663/1664年)

安徽歙県(きゅうけん)の人。弘仁は出家後の法名で、俗姓は江、名は韜(とう)。漸江(ぜんこう)と号する。
絵は元末四大家の倪瓚を学び、人気(ひとけ)のない岩山、絶壁から伸びる孤松などの独特のモチーフを描いた。「査士標」らとともに『新安派』と呼ばれる。

金陵八家

清初期、江南の主要都市には個性ある画家が現れた。前出の「弘仁」とその一派は、徽州(新安)で活動したことから『新安派』とも呼ばれた。
古都南京(金陵)には多くの優れた画家が活動し、中でも「龔賢(きょうけん)」、「高岑(こうしん)」、「樊圻(はんき)」、「呉宏(ごこう)」、「鄒喆(すうてつ)」、「葉欣(しょうきん)」、「胡慥(こぞう)」、「謝蓀(しゃそん)」らを『金陵八家』と称した。
八家のうち「鄒喆」、「葉欣」、「胡慥」、「謝蓀」の現存作品は少ない。
同じ頃、安徽宣城には、もっぱら黄山の風景を描き、『黄山画家』と呼ばれた「梅清(ばいせい)」がいた。

龔賢(1618 – 1689年以後)

江蘇昆山の人で南京に住んだ。
無人の山水画をもっぱら描き、濃墨を塗り重ね、墨の濃淡のコントラストを強調した作風が特徴。

高岑(生没年不明)

杭州の人で南京に住んだ。山水や水墨の花卉をよくした。

樊圻(1616 – ?年)

南京の人。生年は1611年、没年は1694年とも。
山水、花鳥、人物のいずれもよくした。

梅清(1623 – 1697年)

安徽宣城の人。黄山風景を得意な構図と画法で描いた。

査士標(1615 – 1698年)

安徽休寧の人で揚州に住んだ。
倪瓚、董其昌に学んだ山水画を描いた。書は米芾と董其昌を学んだ。
彼とその周辺の画家を『新安派』と称する。

揚州八怪

清中期の乾隆頃、江南の商業都市揚州には、多くの画家が活動していた。その中で個性的な画風を築いた一群の文人画家たちを『揚州八怪』と称する。『八怪』のメンバーは必ずしも8名に限定されない。
「鄭燮(ていしょう)」、「高翔(こうしょう)」、「金農(きんのう)」、「羅聘(らへい)」、「黄慎(こうしん)」、「李鱓(りぜん)」、「汪士慎(おうししん)」、「李方膺(りほうよう)」らが『揚州八怪』とみなされるが、これに「華嵒(かがん)」、「高鳳翰(こうほうかん)」、「閔貞(びんてい)」らを加えることもある。

鄭燮(1693 – 1765年)

江蘇興化(揚州)の人。号は板橋。乾隆元年(1736年)の進士。
山東の県令となるが、窮民を救済しようとしたことが上層部の方針と合わず、罷免された。晩年は揚州に住み、墨竹、墨蘭をもっぱら描いた。

高翔(1688 – 1753年)

江蘇甘泉(揚州)の人。弘仁、石濤に学んだ山水をよくし、墨梅も描いた。

金農(1687 – 1763年)

浙江仁和(杭州)の人。書家としては「漆書体」という独自の隷書で知られる。
絵画は50歳代以降に制作。墨梅で知られる。

羅聘(1733 – 1799年)

安徽歙県の人で揚州で活動した。金農の弟子で、鍾馗などの故事人物図を得意とした。

黄慎(1687 – 1770年頃)

没年は1768年とも。福建寧化の人。
しばしば揚州を訪れ、揚州と故郷福建の双方で活動した。
独特の線を用いた人物画で知られ、山水画もある。

李鱓(1686 – 1762年)

没年は1760年とも。江蘇興化(揚州)の人。
宮廷画家となった後、山東の県令に任じられたこともあるが、上司と衝突して官を去り、揚州で売画で生計を立てた。写意の花卉画をよくした。

汪士慎(1686 – 1759年)

安徽休寧の人。墨梅をよくした。

李方膺(1695/1696 – 1755年)

江蘇南通の人。墨竹をよくした。

華嵒(1682 – 1756年)

福建臨汀の人(出身は上杭とも)。人物、花鳥をよくした。
独自の色使いで、南宋の院体画とも、徐渭などの写意画とも異なる、独自の写生風の花鳥画を制作した。

高鳳翰(1683 – 1748/1749年)

山東膠州(こうしゅう)の人。山水、花鳥をよくした。
50歳代に右手が不自由になったため左手で描くようになり、「尚左生」と称した。指頭画(筆の代わりに指先や爪で描く)もよくした。

閔貞(1730 – ?年)

江西の人。花鳥をよくした。

清代前期のその他の画家

袁江(えんこう、生没年不明) 

揚州(または江都)の人。宮廷画家で、青緑の楼閣山水をよくした。

袁耀(えんよう、活動期1739 – 1778年)

揚州の画家。袁江の甥。おじの袁江と同様、青緑の楼閣山水をよくしたが、おじと違って宮廷に仕えた記録はない。

禹之鼎(うしてい、1647 – ?年)

揚州の人。康熙年間の宮廷画家で、山水画も描いたが、特に肖像画をよくした。

郎世寧(ろうせいねい、1688 – 1766年)

イタリア、ミラノの人。名はジュゼッペ・カスティリョーネ(Giuseppe Castiglione)。
キリスト教の宣教師として康熙54年(1715年)に中国に入り、康熙・雍正・乾隆の3代に宮廷画家として仕えた。
山水、花鳥などの中国的画題を、西洋画法を取り入れた写実的画法で描いた。

金廷標(きんていひょう、生没年不明)

乾隆年間の宮廷画家。独特の鋭い線描で故実人物画などを描いた。

高其佩(こうきはい、1660 – 1734年)

本籍は山東だが、遼寧鉄嶺に移った。
筆を使わずに指先や爪に墨をつけて描く「指頭画」の作家で、多くの追随者を生んだ。
山水、花鳥、人物のいずれもよくしたが、特に鍾馗の絵を多く描いた。

沈銓(しんせん、1682 – 1761?年)

浙江徳清(または呉興)の人。南蘋(なんぴん)と号した。
1731年に日本の長崎に渡って3年ほど滞在し、後の日本画壇に大きな影響を与えた。
画風は南宋院体画風に西洋画風を加味している。

奚岡(けいこう、1746 – 1803年)

銭塘の人。黄公望、沈周、文徴明らの文人山水画の系統を継ぐが、奚岡自身は科挙に応じず、生涯平民であった。
清初の『四王』以後の正統派画人の中では有力な存在である。

改琦(かいき、1774 – 1829年)

先祖は西域の人だが、松江(上海)に移った。仕女図をよくした。

費丹旭(ひたんきょく、1801 – 1850年) 

湖州烏程の人。家が貧しく、売画で生計を立てた。仕女図と肖像画で知られる。

海上画派および清末の画家

虚谷(きょこく、1823 – 1896年)

安徽新安の人。俗姓は朱。
軍人であったが、太平天国軍と戦うのを嫌い、出家した。僧籍にありながら精進せず、もっぱら上海で売画で生活していた。金魚の絵を得意とし、写意の花卉画や山水画もある。

趙之謙(ちょうしけん、1829 – 1884年)

浙江会稽(紹興)の人。初め字を益甫、号を冷君といったが、後に字を撝叔(きしゅ   く)と改め、悲盦(ひあん)と号した(「あん」の漢字は上から「今」「酉」「皿」)。
太平天国の乱で故郷を離れ、34歳の時に妻と娘を失うなど、波乱に満ちた生涯を送った。書家としては、碑学を切り開いた鄧石如の影響を受け、篆隷書をよくした。画は揚州八怪の李鱓、高鳳翰らの影響を受け、華麗な色彩の写意の花卉画をよくした。
金石学(中国古代の青銅器や石刻の文字を研究する学問)を学んだことから、後述の呉昌碩とともに金石学派とも称される。

呉昌碩(ごしょうせき、1844 – 1927年)

浙江安吉の人。字の昌碩で呼ばれることが多い。名(諱)は初め俊で、後に俊卿と改めた。字は初め香補、後に昌碩と改める。号は缶廬(ふろ)、苦鉄、大聾など。
書家、篆刻家としても知られ、詩書画篆刻のいずれをもよくし、中国近代芸術への影響が大きかった。絵は30歳代から学び始め、40歳代になってようやく自分の絵を人前に出すようになった。篆書の筆意を生かした松竹梅などの花卉画が多いが、山水もある。
西泠印社(篆刻を主とする学術団体)の社長も務めた。

任頤(じんい / にんい、1840 – 1895年)

浙江紹興の人。初名は潤、字を小楼といった。後に名を頤、字を伯年と改めた。
写意の花鳥画をよくし、肖像画家としても優れていた。中国絵画には余白に題詩を書したものが多いが、任頤の作品にはそうしたものはほとんどみられない。
師の任熊と任薫、および任預とともに『海上四任』と称された。

黄賓虹(こうひんこう、1863 – 1955年)

民国期を代表する山水画家。
ヨーロッパ留学経験者で、帰国後は宋元の水墨画に西洋の水彩画風を加味した作風を特色とした。

斉白石(せいはくせき、1864 – 1957年)

湖南湘潭の人。生年は暦の関係で1863年とされることもある。もとの名は純芝、字は渭清。後に名を璜(こう)、字を瀕生とした。白石は号(または字)で他に借山吟館主者、寄萍老人などと号した。
辛亥革命後は中国美術家協会主席を務めた。写意画の花鳥を得意とし、徐渭、八大山人、石濤などに師法した。

民国時代の画家

高剣父(こうけんふ、1879 – 1951年)

辛亥革命や抗日運動に参加し、革命画家と呼ばれるが、若い時は日本に留学したこともある。その後、政治運動を離れて画業に専念する。
私立南中美術院を設立し、多くの後継者を育てた。『嶺南派の祖』と呼ばれる。

劉海粟(りゅうかいぞく、1895 – 1994年)

江蘇武進の人。日本と欧州に留学経験がある。
上海美術専科学校を設立し、デッサンの指導に中国ではそれまで一般的でなかった人体モデルを使うなど、改革に努めた。

徐悲鴻(じょひこう、1895 – 1953年)

江蘇宜興の人。1919年から1927年にかけてフランスに留学し、パリのエコール・デ・ボザールに学んだ。
帰国後は南京の国立中央大学芸術系主任を務め、中華人民共和国成立後は中央美術院院長を務めた。
画風は社会主義レアリスムの系統で、特に馬の絵で知られる。

張大千(ちょうだいせん、1899 – 1983年)

「東洋のピカソ」と称される、近代中国を代表する書画家。四川内江の人。大千は号で、諱は爰(えん)。
19歳の時に日本の京都に留学し、染色を学んだ。敦煌に長期滞在し、莫高窟の壁画を模写したこともある。
第二次大戦後はアメリカやブラジルに住み、国際的に活動した。中国画に西洋画の手法を取り入れた作品で知られるが、晩年は台湾に住み、目を悪くしたこともあって、水墨画を主に描くようになり、溌墨を多用した。

溥儒 (ふじゅ、1896 – 1964年)

中国の画家・学者。清皇族・愛新覚羅一家の末裔。清皇族で溥儀の従兄弟。名は儒、字は心畬(余)、号に西山逸士。
辛亥革命後ドイツに留学し天文学博士の学位を取得。帰国後画を学び始める。
山水・人物・花鳥に優れ、馬夏一派を臨摸し淡雅な趣がある。
張大千と並んで『南張北溥』と称され、詩文・書にも優れたことから三絶ともいわれた。
国立北京芸術専科学校教授、満族国民大会代表。

程十髪(ていじゅっぱつ、1921 – 2007年)

近現代中国の画家、書家。上海市松江県の小さな村に生まれる。本名は程潼。
上海市美術専科学校国画科に学ぶ。学校に入学するまでは誰かに指導されたこともないが、絵を学び始めた時すでの基礎ができていた。
在学中に教師に「十髪」という号をもらい、絵画制作を行うようになる。卒業後は挿絵画家として活躍する。
20世紀中国で最も有名な風刺家、魯迅の短編『阿Q正伝』の挿絵を描いたことがきっかけで脚光を浴びた。
人物画や竹石などを手掛ける。一方で、写実的な古典人物、仕女、鹿、鳩などを手掛けるなど独自の工夫を凝らし独特の画風を確立する。上海中国画院にて画師として活躍するようになる。また、1956年には上海中国画院にて講師を務める。その後は少数民族を題材とした作品を多く手掛けるようになる。
海外でも個展を開催しており、日本で一番最初に開催した事から多くの程十髪の作品が残されている。
細筆を巧みに用いた趣ある画風の人物、竹石などが得意である。
写実風の画風によって古典人物、仕女、鹿や鳩を多く書いている。
また書も趣ある作品で知られている。
上海薗東人民美術出版社にて創作幹部に任命されたり、上海中国画院院長、西泠印社副社長、中国画研究院院務委員、中国美術理事などを歴任。

林風眠 (りんふうみん、1900 – 1991年)

現代中国画の巨匠。美術教育家。広東省東梅県生まれ。
幼いころより絵画を好み、19歳でフランスに渡り、ディジョン美術学校、後にパリ国立高等美術学校で西洋画を働きながら学んだ。
絵画の『中欧融合』を提唱し、従来の中国画に西洋画の様式を取り入れ、新たな作風を生み出した『現代中国画の先駆者』として知られています。
林風眠は前期には西洋画、特にアンリ・マティス風の人物、裸女、静物を描いていたが晩年は美し色彩を特徴とする花鳥、人物、風景を描いた。
仕女や京劇役者、女性像、静物画、風景画などを得意とした。
北平芸術専門学校校長、中国美術家協会上海分会副主席を歴任。

李可染 (りかせん、1907 – 1989年)

現代中国山水画の第一人者、江蘇省徐州市出身。
幼時から絵画、書、音楽に優れた才能を示した。
13歳の時に銭食芝に師事し、四王(王時敏、王鑑、王翬、王原祁)の山水画を学んだ。
1925年に国立西湖芸術院研究生となり、林風眠に素描と油画を1940年重慶に移って徐悲鴻、郭沫若、老舎に学んだ。
1946年、徐悲鴻に招かれて北京国立芸術専科学校教授になり、黄賓虹、斉白石に師事。
独特な発想、構図そして堂々とした雰囲気や奥深い遠景を有する作品で知られる。牧牛を題材にした作品を多く描いたことでも知られています。
中央美術学院教授、中国画研究員院長、中国美術家協会副主席、中国文連委員、中国政治協商会議委員を歴任。