三原 正家
三原 正家(みはら まさいえ)は、備後国三原(現在の広島県三原市)の刀工です。備後三原派の祖、もしくは中興の祖。および、その名跡、その刀の名。はじめ下作とされたが、応仁の乱(1467年)以降、卓越した斬れ味で声望を高め、正家の名跡は16世紀末まで300年間近く続きました。15世紀前半の四代正家(左兵衛尉正家)は、最上大業物に位列される日本刀史屈指の名工。初代も大業物、三代も良業物に数えられる。
古来より日本では、備州の刀といえば備前国(現在の岡山県東南部)の古備前派、備前派が著名であり、それに比べてネームバリューの劣る備後の三原派(古三原派)は下作とされ、地位も価格も安かった。しかし、初代正家から100年も経ち、応仁の乱(1467年)以降、実戦が頻繁になると、三原派の日本刀の斬れ味が良いことが発見され、名刀に数えられるようになりました。
江戸時代には幕府公式の試斬者である山田浅右衛門吉睦によって、初代右衛門尉は大業物、三代兵庫助は良業物、四代左兵衛尉は最上大業物に位列されるなど(『古今鍛冶備考』)、正家は日本刀史でも最も名高い名跡の一つである。村正が江戸時代に「妖刀」の汚名を着せられたとき、「正宗」や「正家」に銘を改竄されるという事態が起きており、「正」字を持つ刀工としては村正・正宗に次ぐ知名度だったことがわかります。
なお、初代の頃は三原という地名・流派が無名だったためか、正家本人が「三原正家」を名乗るのは初代から150年後の15世紀末の正家の頃からである。初期の正家は、三原ではなく尾道の刀工だったのではないか、という説もあります。
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