助真
助真(すけざね)は、鎌倉時代中期の備前国(現・岡山県)出身の刀工。生没年不詳。藤源次助眞とも呼ばれる。福岡一文字派に属し、助成の子という。文永3年(1266年)頃に相模国(現・神奈川県)鎌倉山内に下向して「鎌倉一文字」を興し、相州鍛冶の基礎を築きました。吉房・則房と並ぶ華麗な作風で知られています。
助真は鎌倉時代の備前一文字派を代表する刀工です。一文字派は、吉井川下流の福岡荘に居住したことから「福岡一文字」とも呼ばれ、銘字に個別の刀工名を切るもののほかに、単に「一」とのみ銘するものがあることから、一文字派と呼ばれています。鎌倉時代中期には吉房、則房、助真らの名工を輩出し、いずれも華麗な丁子乱れの刃文を特色としていますが、助真は一派のなかでももっとも豪壮で覇気のある作風を示しています。惟康親王の鎌倉幕府7代将軍就任に合わせて招かれ、備前から鎌倉郡山内郷の1つ、沼浜郷(現在の逗子市沼間)へ移り住み相州(相模)鍛冶の祖となったという所伝から「鎌倉一文字」と称されます。
相州鍛冶の実質的な祖とみなされるのは国光(新藤五国光)ですが、古伝書には国光の親または師にあたる刀工として、京の粟田口国綱、備前三郎国宗、それに一文字助真の3説があります。観智院本『銘尽』は相州鍛冶の系譜として2種類の系図を掲げていますが、このうち「相模鍛冶系図」は助真を国光の親または師としました。『喜阿弥本銘尽』も助真を相模の鍛冶としています。
備前刀の作風(備前伝)の特色の一つに、刃文が匂(におい)主体(匂出来)となることがありますが、助真の作風は、徳川家康の指料として名高い「日光助真」にみられるように、沸(にえ)勝ちのものです。助真の作刀については、備前風の強いものを「備前打」、それより派手な作風のもの(徳川美術館蔵太刀など)を「鎌倉打」とする見方もあります。なお、刀剣研究者の小笠原信夫は、助真にみられる丁子乱れの刃文は備前特有のものであり、相州鍛冶との関連は考えにくいとされています。
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