買取品目掛軸 日本画
岸駒
- 1756年
- 出身地は越中国高岡(現、富山県高岡市)説と加賀国金沢(現、石川県金沢市)という二説がある。
- 1760年
- 4歳の時オウムを写生したのが絵を描いた始まりされる。
- 1763年
- 狩野花信と称し絵を描いたとされるが、当時岸駒は8歳または15歳で信憑性は薄く、花信落款の作品も確認できない。
- 1775年
- 名を岸矩、号を蘭斎と改める。
- 1778年
- 絵師として名を立てようと上京するが、折悪く父が亡くなり一旦帰郷。
- 1779年
- 母を連れて再度上洛、通称を健亮と改め、翌年斉藤氏の娘菊と結婚。この頃、丹丘、黄筌、李思訓、呂紀などの中国画から学んだことを作品に記し、沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。また、岸家の系図には円山応挙の名は全く出てこないが、円山派を独学で学んだか、原在中が応挙の弟子ではないと偽ったのを岸駒は詰問し、応挙の息子応瑞の家に行って門人帳を見せて貰うと、在中自筆の入門名簿があったという逸話(『古画備考』)から、岸駒も上洛当初は応挙に師事」していたとも考えられる。
- 1782年
- 再上洛から3年後の天明2年(1782年)版『平安人物誌』に名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たす。以後も『平安人物誌』に死の年の版まで漏れ無く岸駒は記載されており、生涯京都を代表する絵師であり続けた。
- 1784年
- 有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、名を岸駒に改め、字を賁然(ひねん)、号を華陽とする。
- 1802年
- 右生火官人(ういけびのかんにん)に補せられて従六位下主殿大属(とのものだいさかん)に叙任。
- 1809年
- 加賀藩主の招きに応じて金沢に赴き、金沢城二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。
- 1836年
- 蔵人所衆に推補のうえ従五位下叙爵、翌8年越前守に任ぜられる。
- 1838年
- 83歳あるいは90歳の長寿を全うして没した。
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