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買取品目掛軸 日本画

木村 武山

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1876年
茨城県笠間市に旧笠間藩士・木村信義の長男として生まれる。
1878年
はやくも2歳頃から地元の南画家・桜井華陵に師事、12歳頃には「武山」の号を用いている。武山の号は、笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名という。
1890年
地元の西茨城連合高等小学校を卒業後に上京、東京開成中学校に入学するが、翌年、東京美術学校普通科に編入する。ここで同校教授の下村観山の強い影響を受け、以後画家としての人生を観山と共に歩むことになる。またこの頃、川端玉章の画塾・天真社で学ぶ。
1896年
9月に卒業後も同校に留まり、日本画研究科へ進む。同年、日本絵画協会第一回展に「貫定卿旧都観月」で二等褒状を受ける。
1897年
2月には平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加。
1898年
10月に創立された日本美術院に参加、最初は副員だったがのち正員となる。同年12月一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入隊している。
1902年
先輩の下村観山との強い絆が生まれたようで、谷中初音町の八軒家に観山や大観と共に住み、朦朧体への批判で世評が厳しくなった美術院を支える中心作家としての立場が明快になっていく。
1904年
2月に起こる日露戦争ではかつての近衛歩兵第1連隊に応召され、7月陸軍歩兵中尉に任官し、8月には従七位に叙位される。
1906年
観山の推挙により岡倉らの五浦移転に、一家をあげて同行する。武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれており、後半期の画業の主流となる仏画も並行して描き始めた。
1914年
大観・観山らと共に日本美術院を再興、経営者、評議員、同人の三役を兼ね、以後中心的存在として院の経営に尽力した。
1937年
脳内出血で倒れ郷里・笠間で静養、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名をとる。
1942年
喘息のため死去。

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