菊地 芳文 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品・骨董品の高価買取なら「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

菊地 芳文

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1862年
大坂で表具師・市谷三郎兵衛の次男として生まれ、ほどなく菊池家の養子となる。
1881年
1月からは幸野楳嶺に師事。当初絵の学習は趣味的なものであったが、楳嶺の勧めに従い内弟子としての修行を開始、「師匠の筆跡のかすれまで真似させる」ともいわれるほどの厳しさと、西洋画法にも範をとり、参考図書の充実をも図るといった合理性を併せ持つ楳嶺の指導を実直、勤勉に習得。
1882年
第1回内国絵画共進会展に出品した「修学院夏雨図」が銅賞を受賞し、京都画壇・四条派の正統を受け継ぐ画家として画壇デビュー。
1886年
京都青年絵画共進会展で「菊に雀」が第1席
1887年
第2回内国絵画共進会展で「花鳥」「山水」が銅賞
1891年
日本絵画共進会展で「木曽山中」が2等賞。同年の日本美術協会展では「晩秋寝覚床図」が銅牌を受賞。
1893年
シカゴ万国博覧会にも「青堤群鷺」を出品、こうした活躍から、同門の竹内栖鳳、都路華香、谷口香嶠とともに「楳嶺門下の四天王」と称された。
1894年
京都市美術学校の教諭
1895年
京都青年絵画共進会の審査員となり、同展に出品した「秋霽小鷹狩図」は傑作と評された。
1897年
第1回全国絵画共進会展に出品した「烟暖花新」もまた大傑作と絶賛され、この前後の時期に集中した森寛斎、幸野楳嶺、岸竹堂といった重鎮クラスの画家たちの死にも後押しされ、京都画壇で重要な地位を占めるにいたる。
1903年
出品した「春の夕・霧の朝」によって「花鳥画の芳文」との評価を得、以降は花鳥画を多く制作。
1907年
文部省美術展覧会(=文展)が創設されると、その第1回では審査委員をつとめ、自らも「春秋花鳥」を出品した。
1914年
第8回に出品した「小雨ふる吉野」では、その叙情的な表現が称賛され「桜の芳文」との異名もとることとなった。
1918年
京都・衣笠の自宅で57歳で死去。

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