柴田 是真 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

柴田 是真

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1807年
江戸両国橘町に生まれる。
1817年
11歳の時より、職人気質を重んじ精巧な細工に特色を示す初代古満寛哉(こま かんさい)に蒔絵を学ぶ。また一時、寛哉の親友であった谷文晁に指導を受けたと伝えられる。是真は文晁の画風には馴染まなかったが、書風は慕い、後年その書を愛蔵したという。
1822年
16歳で画工の図案に頼らず仕事をするため、鈴木南嶺に四条派の絵を学んだ。「令哉(れいさい)」の号は、南嶺の嶺の字の一部「令」と、古満寛哉の「哉」を採った名である。
1827年
当時売り出し中の浮世絵師歌川国芳が、是真の扇絵に感動し弟子入りしようとしたが、是真は初め固辞するが弟子とし、国芳に「仙真」の号を与えたという逸話が残る。
1830年
24歳の時四条派をより深く学ぶため京都へ遊学した。南嶺の紹介で、四条派の本場京都画壇の俊英である岡本豊彦の弟子となる。同門で近くに住んでいた是真より1歳年下の塩川文麟は、親友でありライバルでもあった。南嶺は江戸を立つ是真に京で見聞を広めるよう勧めており、是真はその教えに従い、香川景樹に歌学と国学を、頼山陽に漢字を学ぶ。山陽門下という肩書きは、後に思わぬところで役に立ったという。京都滞在中は、他に松村景文、森徹山、和田呉山、田中日華、陶工の青木木米とも親交をもった。
1831年
江戸に帰ると師南嶺に再会、その驚くほどの進歩を認められ、新たに字「儃然」と「是真」を号するようになった。この字と号は、荘子外篇・田子方篇、第二十一に由来する。またこのころ、神田川をはさんで柳原の対岸、浅草上平右衛門町に居を移し、以後、對柳居と号し好んで使用した。同時期に当時11歳の池田泰真が弟子入りしている。
1844年
弘化年間(1844年 – 1847年)より名が知られるようになった
1873年
ウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞する。
1886年
皇居の杉戸絵を描いた。
1890年
10月2日に帝室技芸員になる。
1891年
7月13日に没した。

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