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買取品目掛軸 日本画

近藤 浩一路

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1884年
山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。
1904年
画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。
1910年
美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。
1915年
読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家としても注目される。
1919年
日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。
1921年
日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。
1922年
岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレコの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。
1923年
第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。
1931年
個展開催のため、茨木杉風とともにフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。アンドレ・マルローの『人間の条件』に登場する蒲画伯は、浩一路がモデルである。
1936年
日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで創作を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエ(白井晟一設計)を構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。
1962年
晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。

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