北野 恒富 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品・骨董品の高価買取なら「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

北野 恒富

1880年
石川県金沢市十間町で加賀藩士族・北野嘉左衛門の三男として生まれる。少年時代から絵を描くことを好み、家にあった掛け軸の絵などを模写して楽しむ。
1892年
小学校を卒業した明治25年(1892年)木版書画の版下製作業者・西田助太郎に入門、技術を研修するかたわら南画を学ぶ。
1897年
彫師、伊勢庄太郎のもとで木版下絵を描く修行を重ねたのち、彫刻師中山駒太郎に従って北国新報に入る。
1898年
中山の紹介により月岡芳年門下の稲野年恒に入門。
1899年
11月には月刊新聞「新日本」の小説挿絵を描き、挿絵画家としてデビュー。この時期には仕事をこなすかたわら洋画の画法の研究にもいそしみ、当時、尾崎紅葉の『金色夜叉』や小杉天外の『魔風緑風』の挿絵を担当して人気を博していた挿絵画家・梶田半古の作品にも触発され、後年の画風の素地が形成されていった。また同時期に野田九浦の知遇も得たが、北野を彼に紹介した信近春城は大阪画壇の組織化を早くから試みていた人物であり、後年北野がとった同様の行動には彼からの影響が窺える。
1901年
10月に大阪新報社に入社、小説挿絵担当となる。
1910年
第4回文部省美術展覧会(文展)で「すだく虫」が初入選。
1911年
第11回巽画会展に出品した「賃仕事」が三等銅賞、第5回の同展では「日照雨(そばえ)」が3等賞を受け、日本画家として名を知られることとなった。
1912年
7月の現代名家風俗画展(会場は高島屋呉服店)には「浴後」(京都市美術館蔵)を発表、関西弁の響きを思わせる丸みを帯びた造形と、背後にさまざまな物語を連想させる濃厚な情感、克明な描写、そしてそれらが生み出す頽廃的な雰囲気が特徴の「恒富風美人画」が確立され、人気画家への仲間入りを果たした。
1914年
画塾「白耀社」を創設する。
1915年
文展への出品は大正4年(1915年)の「暖か」(滋賀県立近代美術館蔵)が最後となる。
1917年
院展の同人となった。
1921年
この後、大正10年(1921年)の再興第8回院展から昭和21年(1946年)の第31回展まで、ほぼ毎年出品が続けられ、創作の大きな柱となった。
1946年
大阪市立美術館に絵画研究所が併設されると、日本画講師として招かれるなど、大阪画壇のリーダー的存在として重きをなした。
1947年
5月20日に当時在住していた大阪・三野郷村(現在の東大阪市、八尾市の一部)の自宅で心臓麻痺のため67歳で急逝。

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