河鍋 暁斎 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品・骨董品の高価買取なら「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

河鍋 暁斎

1831年
下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男として生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。
1840年
国芳の素行を心配した父により狩野派の絵師前村洞和に再入門。洞和は暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んだという。しかし翌年洞和が病に倒れたため、彼の師家にあたる駿河台狩野家当主の洞白に預けられた。
1846年
小石川片町からの出火で火消し屋敷も消失してしまうが、このとき火事の写生をしている。狩野派門弟時代の逸話に、鯉の写生の話がある。過労で疲れを覚えた暁斎は塾生たちと川遊びに出かけ、そこで3尺近い鯉を生け捕ることが出来た。暁斎は遊び仲間を置いて急いで画塾に戻り、この鯉のあらゆる部分を忠実に写生し、鱗の数をも正確に数え上げた。写生を終えると仲間たちは鯉を殺して食べようとしたが、暁斎は「この鯉はあらゆる部分を写生させてもらった以上我が師であり、礼を尽くして天寿を全うさせてやらねばなりません」と抗議した。暁斎の兄弟子は聞く耳持たず料理を始めようとしたが、突然鯉は激しく飛び上がり、結局暁斎の意見が通って近くの池に放たれた。後年、暁斎は自分に鯉を書く優れた技倆があるとすれば、それはこの事件によるものだとよく語ったという。
1848年
現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)を制作している。
1849年
洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。狩野派の修業は、橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。
1850年
館林藩(秋元家)の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。
1852年
遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。しかし一方で暁斎は、土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の画流も広く学んでいた。
1855年
10月2日に起こった安政江戸地震の時に、仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出ることとなった。この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第1号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。またこの時期、蒔絵師菱田八十八のもとで下絵を描いている。
1857年
江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継承した(甲斐家は3年後、暁斎の兄直次郎が継承)。
1858年
狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め戯画・風刺画で人気を博した。
1860年
周麿と称して錦絵を描き始めている。
1863年
歌川派の絵師による合作「御上洛東海道」に参加した。
1871年
以後、号を「暁斎」と改める。
1881年
明治14年、お雇い外国人の建築家ジョサイア・コンドルが入門。コンドルは暁斎からイギリスの暁斎を意味する「暁英」の号を与えられるほど親しく、2人の交流は前述の暁斎の絵日記にも見られる。
1885年
湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。
1889年
胃癌のためコンドルの手を取りながら逝去。暁斎は死の3日前、絵筆を取りたい欲求に抗し難く、枕後ろの障子にやせ衰えた自分の姿と、もうすぐ自分が入るであろう角型の桶を描いたという。

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