買取品目掛軸 日本画
鳥文斎 栄之
- 1756年
- 江戸に生まれる。
- 1772年
- 17歳で家督を継いでいる。絵は初め狩野典信に学び、師の号「栄川院」より「栄」の一字を譲り受け栄之と号した。後に浮世絵に転じたため、師の栄川院より破門を言い渡されたが、栄之の号だけは永く使用していた。
- 1781年
- 天明元年(1781年)4月21日から天明3年(1783年)2月7日まで西の丸にて将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。12月16日には布衣を着すことを許可されている。
- 1785年
- 初作は天明5年(1785年)刊行の黄表紙『其由来光徳寺門』の挿絵である。初期の作品は、天明期の美人画界の巨匠・鳥居清長の影響が強く、清長風の美人画などを描いている。寛政元年に家督を譲った後は本格的な作画活動に専心し、寛政(1789年 – 1801年)期には栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立てた。特に女性の全身像に独自の様式を確立、十二頭身と表現される体躯の柔らかな錦絵美人画を寛政後期まで多数制作している。栄之の描線は細やかで優美、その女性像は背丈のスラッとした優雅なもので、当時ライバルだった喜多川歌麿作品に見られる色っぽさや淫奔さとは、はっきりと一線を画したものであった。栄之は遊里に生きる女性を理想像に昇華し、清長よりもほっそりとして、歌麿のような艶麗さがなく、容貌は物静かといった栄之独自のスタイルを確立している。また『源氏物語』などの古典の題材を当世風に描いた3枚続「風流略(やつし)源氏」のように、彩色は墨、淡墨、藍、紫、黄、緑といった渋い色のみを用いた「紅嫌い」と呼ばれるあっさりとした地味なもので、それでいて暖かみを感じさせる独特の雅趣のある表現を好んでいた。この「紅嫌い」の創案者は栄之であるといわれる。栄之はこの作風をもって一枚絵で歌麿とその人気を競った。中判や柱絵にも優れた作品があるが、錦絵の代表作ではシリーズ物の「風流略(やつし)六哥仙」、「風流名所十景」、「青楼美撰合」、「青楼芸者撰」、「青楼美人六花仙」などがあげられる。なかでも「青楼美人六花仙」のシリーズは黄潰しの背景に花魁の座像を気品高く描いており、栄之ならではの傑作とされている。
- 1798年
- 錦絵の一枚絵の制作を止める。江戸期の記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述が見られ、版画作品の発表を取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる。
- 1800年
- 妙法院宮真仁法親王(門跡)が江戸に下向した折、将軍が栄之に命じて評判の隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせるということがあった。京に帰った妙法院宮は、それを絵を好んだ後桜町上皇に江戸土産としたところ、上皇は殊のほかお喜びになり、ついには仙洞の御文庫に納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章を作り、記念としたのであった。ついに浮世絵が帝の叡覧に供せられるという誉れに浴した瞬間であった。評判となったこの一事によって栄之の画名を高めるとともに、以降自作に対し大いに矜持を抱いたといわれる。さらにこのことが当時広く知られるようになったため、隅田川を描いたそれと同趣向の作品の揮毫を各方面から次々と求められたとみられ、同様の「吉原通い図巻」がおよそ21点ほど確認されている。
- 1801年
- 享和(1801年 – 1804年)・文化(1804年 – 1818年)期にかけてはもっぱら肉筆の美人風俗画を手がけており、気品のある清雅な画風で人気を得た。江戸時代は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、栄之の転身も彼の出自と、当時の身分意識が影響していたとみられる。
- 1829年
- 74歳で死去した。
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