円山 応挙 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品・骨董品の高価買取なら「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

円山 応挙

1733年
丹波国南桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。
174X年
詳しくわかっていないが、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。
175X年
20代の修行期の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。この頃、京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていた。
1759年
「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作した。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。応挙が見た眼鏡絵は、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して眺める。そうすると、遠近が深く感じることが出来る。よって、この原画及び図上の文字は左右反対に描いてあった。作品は木版墨摺りで、手で着色したものであった。画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てるという工夫が見られた。
1766年
「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国宋末 – 元初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しているが、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。
1795年
死去。享年63。

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