松永 耳庵 | 掛軸 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目掛軸 日本画

松永 耳庵

1875年
長崎県壱岐の商家に生まれた。
1889年
東京へ出て慶應義塾大学に入学。遠縁に当たる霊岸島の山内善三郎家に寄寓した。16歳のときには真性コレラにかかり、本所緑町の避病院に入れられることになったが幸いに助かった。
1893年
父(二代目安左エ門)の死で帰郷、家督を相続し、三代目安左エ門を襲名。それまでは、大きな不幸も知らず、順調だっただけに、父の若死は腹立たしいほど残念だった。するめ、干しあわびなどの水産物資をつくって中国に輸出することなどを手がけた。自分も持ち船にのって壱岐から博多、長崎、平戸、対馬などにでかけていた。元来松永家は商売のほか土地もかなりあった。土地の管理、漁場経営などには相当手がかかった。そこで安左エ門は酒造業、海産物取り扱い、呉服業などはいっさいやめる決心をした。それらの業は他人に譲渡して、土地だけを確実に継承していくことにした。
1896年
21歳の秋再び慶應義塾に戻った。福澤諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳(けいがい)に接すると共に、福澤桃介の知遇を得た。
1898年
卒業まであと一年という1898年(明治31年)、学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう」と勧められて退学した。福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と記した。慶應義塾大学中退後、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。当時山本達雄総裁の下、日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され、慶應出身者が用務員から一般職員、幹部人事までを占めた時期にあたるが1年で辞職。その後は福澤と共同で神戸や大阪等で材木商や石炭業を営む。
1909年
福博電気軌道の設立に関わり、松永が電力事業に携わる第一歩となった。その後いくつかの電力会社を合併し、九州電灯鉄道となる。
1922年
関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になった。
1928年
社長に就任し、一都十一県に電力を供給するまでになった。
1946年
小田原市板橋に「松下亭」(後に「老欅荘」)を建てて埼玉県柳瀬(現・所沢市)から移り、住まいとした。柳瀬で所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。小田原では益田鈍翁(益田孝)(号は、どんのう)、野崎幻庵(野崎廣太)の後を受けて近代茶道を嗜み、小田原三茶人と称される。
1951年
こうした経緯から電力技術の研究開発を効率的かつ国家介入など外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク・電力中央研究所を設立し、晩年は自ら理事長に就任した。
1956年
私設のシンクタンクである産業計画会議を発足させて主宰し、経済分野の国家的政策課題について政策提言を行った。提言内容の例として東名高速道路・名神高速道路の計画や、国鉄民営化、日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画、北海道開発などがある。報告書は内閣、衆参両院、中央官庁へ届けられ、政府の政策に大きな影響を与えた。
1959年
財団法人松永記念館を設立、自宅敷地内に松永記念館本館を建て、収集した古美術品を一般に公開した。
1962年
松永の米寿を記念して池田勇人内閣総理大臣が発起人となって、財団法人松永記念科学振興財団(1962年 – 1978年)、松永賞(同)が創設された。
1968年
慶應義塾命名百年式典にて、高橋誠一郎と共に名誉博士の称号が授与された。
1971年
肺真菌症の為に東京都新宿区の信濃町の慶應義塾大学病院にて死去。95歳没。

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