買取品目掛軸 日本画
森 寛斎
- 1814年
- 山口県で生まれる。
- 1825年
- 12歳の時、萩浜崎の万福寺の寺侍で、作風から円山派に影響を受けた太田(田)龍について絵を習う。
- 1831年
- 18歳の時大坂蔵屋敷の検使役となった戸田九郎左衛門に従って上坂、森徹山の門に入る。しかし、一年も経たないうちに戸田が病気にかかってので、寛斎も戸田とともに帰郷する。
- 1838年
- 再び上坂するが、徹山はその頃京都にいたので、上洛し再入門を果たす。
- 1840年
- 師徹山は四条派に押され衰退に向かっていた円山派を再興するため、表向きは徹山の実子として、実際は一鳳の弟として徹山の養子となった。翌年、徹山が亡くなると一時京都を離れ、四国や中国地方を遊歴し、この頃から南画の画風も身につけ始めたという。
- 1855年
- 御所造営でに一鳳と共に参加し、寛斎は常御殿の杉戸絵に「帰去来」「赤壁」を描き、各地でこの頃の作品が確認されている。例えば徹山が出入り絵師を務めていた金毘羅神社との関係を引き継いでしばしば訪れ、応挙の障壁画などを補修しつつ、その画技を学ぶ。また数度に渡って倉敷の素封家萩野家を訪ねており、同じ倉敷にある野崎家塩業歴史館に寛斎の作品が数十点所蔵されている。
- 1865年
- 萩藩には25俵で召し抱えられ藩の御用絵師となる
- 1870年
- 絵に専念するため賞典返上帰商願を藩に提出。藩はこれを認めて恩典に金100両を贈り、寛斎はお抱え絵師の身分を離れて上洛する。
- 1880年
- 京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)設立に伴って出仕となり、2年後には実際に画学講座を担当している。
- 1890年
- 10月2日には帝室技芸員を拝命。
- 1894年
- 前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅で没する。享年81。
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