買取品目掛軸 日本画
寺崎 広業
- 1866年
- 久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。
- 1882年
- 16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門
- 1885年
- 19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらなかった。広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京した。
- 1893年
- 稲田吾山という最初の門下生を迎え入れた。
- 1898年
- 東京美術学校助教授に迎えられた。
- 1899年
- 校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去った。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。
- 1900年
- 秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾った。
- 1901年
- 美術学校教授に復し天籟散人と号し、また天籟画塾を設け、野田九浦、正宗得三郎、中村岳陵、牧野昌広、伊藤龍涯、三浦廣洋ら300人ほどの門下を育成している。
- 1904年
- 日露戦争の従軍画家となり、その経験を生かして木版画による戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いており、軍神橘大隊長と知り合ったが健康を害して3か月で帰国した。
- 1907年
- 第1回文展が開催されて日本画の審査員となり、自ら大作「大仏開眼」を出品した。
- 1912年
- 文展には「瀟湘八景」を出して同名の大観の作品とならび評判作となった。
- 1913年
- 美術学校の日本画主任となる。
- 1917年
- 帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つようになった時、病気になる。
- 1919年
- 54歳を一期に世を去った。
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