買取品目掛軸 日本画
谷 文晁
- 1763年
- 江戸下谷根岸の生まれ。
- 1775年
- 12歳の頃、父の友人で狩野派の加藤文麗に学ぶ。
- 1781年
- 18歳の頃に中山高陽の弟子渡辺玄対に師事した。
- 1783年
- 20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌につき、北宋画を修めた。鈴木芙蓉にも学んだとされるが確かではない。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学んだ。
- 1789年
- 26歳の時長崎旅行を企て、大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受けた。田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。
- 1793年
- 30歳のとき、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し、図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し、古書画や古宝物の写生を行った。また「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。 小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。
- 1812年
- 文化9年(1812年)に著した『日本名山図会』は、日本の代表的山岳89座の風景を90葉の画で表したものであり、当時広く親しまれ、後世の山の見方に影響を与えたという。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。
- 1829年
- 定信が歿し、67歳になった文晁は御絵師の待遇を得て剃髪した。
- 1837年
- 75歳の時に法眼位に叙され、文阿弥と号する。
- 1841年
- 没。享年79。
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