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買取品目絵画 浮世絵

渓斎 英泉

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1791年
江戸市中の星ヶ岡(現・千代田区永田町山王あたり)に、下級武士政兵衛茂晴の子として生まれた。
1803年
12歳から狩野典信の弟子という狩野白桂斎(かのうはっけいさい)に画技を学ぶ。
1808年
17歳で安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕官するも侍奉公には不向きだったか、17歳の時に上役と喧嘩沙汰となり、讒言によって職を追われている。浪人となった善次郎は父の知り合いのつてで、市村座の狂言作者であった初代篠田金治(後の2世並木五瓶)に狂言作者見習いとして出入りすることとなり、千代田才一(才市とも)と名乗っている。
1811年
20歳の時、父と継母が相次いで亡くなり、3人の妹を一人で養う身となって狂言作者の道は挫折を余儀なくされる。この時、先の水野壱岐守家に仕える多くの血族からの支援もあったが、善次郎はそれをよしとせず流浪のうえ、一時、狂言役者篠田金治(2世並木五瓶)に就いて千代田才市の名で作を為した。また深谷宿にて菊川英二に寄寓、浮世絵師菊川英山の門人格として本格的に絵筆を執ることとなる。そして、ここからが善次郎の才能の発露であり、浮世絵師渓斎英泉の始まりであった。「国春楼」および「北亭」の号をこの時に使うようになる。
1813年
22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本『絵本三世相』を発表。
1815年
『恋の操』(こいのあやつり)を発表。
1816年
北斎から譲られた号「可候」をもって、合巻『櫻曇春朧夜』(はなぐもりはるのおぼろよ)を発表。挿絵とともに本文も自ら手掛けることとなる。艶本は毎年のように作られ、さまざまな隠号をもって人気本を世に送り出す。
1822年
傑作と名高い『春野薄雪』も文政5年(1822年)に著された。また、同じく文政5年の代表作である艶本『閨中紀聞 枕文庫』は、当時の性の医学書・百科事典にして性奥義の指南書であり、同時に、奇書の中の奇書として知られている。
1830年
娯楽全般に厳しく統制される天保の改革の時勢を迎えたのちは、画業はもっぱら多くの門人に任せて自らは描く事は減少し、一筆庵可候の号をもって合巻や滑稽本を主とする文筆業に専念した。英泉の作品は、末期になるにつれ描線の硬化し、図様も自作の焼き直しや他の浮世絵師の作を転用する事例が増え、画力の減退やアイデアの枯渇を看取できる。
1833年
一方、晩年の英泉によって著された『无名翁随筆』(天保4年(1833年)、池田義信名義)は、「続浮世絵類考」と俗称され、考証学的にも優れた浮世絵の貴重な資料として今日に伝わっている。
1848年
齢59で亡くなった。

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