買取品目絵画 浮世絵
懐月堂 安度
- 1677年
- 生没年、出張地不明。(享保15年刊行の豊島露月撰『二子山』、元文3年(1738年)刊行の同じく露月撰の『卯月庭訓』などの俳書には、それぞれ「懐月堂常仙」または「常仙」と署名した挿絵がある。また同時期の俳人に志村常仙という人物がおり、これも新島に流罪になったと伝えられることなどから、これらは安度と同一人物であるとする説がある。この志村常仙については『俳諧人物便覧』(弘化元年〈1844年〉以降、安政3年〈1856年〉以前刊行)に「宝暦二年八月二十三日卒 七十六」とあり、これらに従えば安度は伊豆大島からの帰還後は志村常仙と称し俳人として活動しており、その生没年は延宝5年(1677年)の生まれで宝暦2年(1752年)に76歳で没したことになる。)
- 1704年
- 「安度」の本来の読み方は不明で、「やすのり」とも読める。菱川師宣を始めとする菱川派が衰微した後、宝永から正徳の頃にかけて活躍した浮世絵師であり、長陽堂安知をはじめとして度種、度秀、度辰、度繁といった弟子たちを従えて工房を営み、吉原の遊女などを題材にした肉筆美人画を多く残し一世を風靡した。これら絵師の一派は「懐月堂派」と呼ばれており、安度はこの懐月堂派の頭領と見なされる人物である。ただし上にあげた安知、度種、度秀、度辰、度繁はいずれも落款に「懐月末葉」とあるだけで、自ら「懐月堂」を称したかどうかは確認されていない。直系の弟子以外にも、同時期に懐月堂派の画風で肉筆美人画を描いた者は多く現れている。安度は、懐月堂という「絵屋」を営み、吉原帰りの客に遊女の絵を売っていたと言われ、彼は宝永年間(1704年~1711年)頃、浅草諏訪町に工房を構え、優れた門人を従えて、数多くの肉筆浮世絵を制作した。
- 1714年
- 江島生島事件に安度は巻込まれ、伊豆国大島に流罪に処された。安度と同じ町内に住んでいた商人の栂屋善六が、絵島を芝居見物に案内した折、そこで栂屋とともに同席した事が処罰の理由になったという。
- 1722年
- 恩赦によって安度は許され江戸に帰ることができた。
- 1734年
- 安度帰還後の懐月堂派の活動は、享保19年(1734年)刊行の『本朝世事談綺』(菊岡沾涼著)によればこの時期にも江戸で勢力のあったことがうかがえる。
- 1752年
- 死去?(詳細不明)
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