小林 清親 | 絵画 版画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目絵画 版画

小林 清親

1847年
江戸本所にて幕臣の子として生まれる。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。
1862年
15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。
1868年
1月の鳥羽・伏見の戦いに加わった。幕府消滅後、徳川慶喜らを追って静岡に下る。
1870年
12月から翌71年(同4年)4月頃まで、食客となった鷲津(わしづ)村(現:湖西市鷲津)にて、同居者の子孫から、清親は「暇な時は絵を描いていた」との証言がある。
1874年
生計を立てる為、東京に戻る。
1876年
1月、版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」を版行、同年8月に『東京名所図』シリーズを版行する。明暗を強調し、先達の「開化絵」とは異なる、洋紅を多用しない、上品な色使いと、輪郭線を用いない(使っても墨ではなく、茶色)空間表現で、東京の発展と人々の変化を描き、「光線画」と呼ばれ、人気絵師となる。
1881年
『團團珍聞』に入社。「ポンチ絵」と呼ばれる社会風刺漫画を、木版錦絵だけでなく、石版画や銅版画による新聞挿絵でも表現した。それによって「光線画」は90数点で終えることになる。
1884年
「近接拡大法」と呼ばれる、近景を極端に大きく描いた、歌川広重『名所江戸百景』の影響が顕著な『武蔵百景之内』全34図を版行し、「光線画」の「革新」から、懐古的画風に変わる。
1894年
團團珍聞を退社し、「清親画塾」を開く(1896年まで)。『淡墨絵独習法』『毛鉛画独稽古』等の教本も出版している。日清戦争時、戦闘場面を描いた錦絵を80点以上版行した。中には5枚続きものもある。多くの絵師が戦争画を描き、その中には清親の門人、田口米作もいた。戦争絵全体の版行数は300点以上で、清親のそれが最も多かった。画風は嘗ての「光線画」を思わせる。日露戦争時にも「光線画」風戦争画を描いた。その後は新聞・写真・石版画等の新媒体に市場を奪われ、錦絵の注文は無くなる。各地を旅し、肉筆画を揮毫するようになった。
1900年
『二六新報』に入社するが、そこでの連載記事掲載を止めてもらう為の賄賂を受け取ったとして、妻ヨシ共々逮捕され、1903年に裁判を受ける。そのショックで、伴侶と共に寝込むことになり、その後、『二六新報』を退社する。
1915年
68歳で没す。

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