児島 善三郎 | 絵画 洋画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

無料鑑定・無料出張買取 0120-367-222 受付時間:9:00〜18:00

買取品目絵画 洋画

児島 善三郎

1893年
紙問屋児島本家の第9代当主・児島善一郎、トヨの長男として、福岡市中島(現・博多区中洲中島町)に生まれる。幼名は義太郎。
1907年
福岡県立中学修猷館に入学。3年のとき、中村研一らと絵画同好会「パレット会」を創立し、油彩画を描いたり洋雑誌を購入するなどして西洋絵画を勉強する。
1912年
修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科(現・長崎大学薬学部)に入学するも同年中退。
1913年
画家を志して上京。
1914年
岡田三郎助が指導する本郷洋画研究所に2ヶ月程学ぶが、東京美術学校の受験に失敗し、以後師につかず独学で学ぶ。
1915年
帰郷したおりに結核に罹患。暫く郷里で療養生活を送る。
1920年
回復して再び上京する。この時期に福岡で結核療養中だった倉田百三と知遇になる。
1921年
第8回二科展に『早春の下板橋付近』を出品し初入選。
1922年
第9回二科展では、『裸女』、『代々木風景』が二科賞を受賞。同年、代々木初台にアトリエを竣工する。
1923年
萬鉄五郎を中心とする円鳥会の結成に林武らと共に参加し、その第1回展に『若き女の首』など出品する。
1925年
1925年から1928年にかけてフランスに留学し、パリのシテ・ファルギエールにアトリエを借りる。西洋の古典絵画に親しみ、アンドレ・ドランのフォービズムによる量感あふれる裸婦の表現などから多くを学ぶ。
1928年
帰国。第15回二科展に、古典的な趣のある『立てるソニヤ』等渡欧作22点を特別陳列する。同年、二科会会友となる。
1929年
1929年、1930年協会に参加し、1930年、二科会会員に推挙されるが、同年退会し、里見勝蔵、高畠達四郎、三岸好太郎、林武、福沢一郎らと独立美術協会を創立、日本独自の油彩画を確立することに意欲を燃やす。
1931年
その第1回展に『独立美術首途(第二の誕生)』などを出品。そして、善三郎らが提唱する「日本的洋画」の主張(日本的風土に則したフランス・フォーヴィスムの受容)は広く画壇に波及するところとなる。
1936年
代々木から国分寺に転居し、ここで『箱根』、『東風』、『春遠からじ』などの作品を制作。
1940年
紀元二千六百年奉祝美術展に『松桜図』を出品。
1943年
第6回新文展審査員を務め、『上げ汐』を出品する。
1946年
読売新聞社主催の新興日本美術展の審査員を務める。
1950年
読売新聞社主催現代美術自選代表作十五人展に出品。
1951年
第19回独立展で『アルプスへの道』を発表。荻窪にアトリエを移し、『犬吠岬』、『ミモザの花その他』、『バラ』などの作品を制作する。独自のフォーヴィズムから、日本の伝統的なフォルムと装飾的な表現の導入、写実への再確認などの展開を示しながら、「日本人の油絵」の創造を目指した。
1952年
青年期に罹った結核が再発し、療養と制作の日々を送る。
1958年
週刊朝日に有馬稲子をモデルにした表紙画を描く。
1959年
銀座・松屋で開催された朝日新聞社主宰の児島善三郎自選展に、初期作品から近作まで絵画、彫刻百二点を出品する。
1961年
千葉市の額田病院に入院。
1962年
3月22日、肝臓癌にて逝去。享年69。

児島 善三郎の高価買取なら
豊後にお任せください!

絵画 洋画:「か行」 の
買取作家・取扱い一覧

絵画 洋画:その他の
買取作家・取扱い

その他の買取品目