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王揖唐

1877年
清安徽省廬州府合肥県生まれ。
1904年
甲辰科進士となったが、自ら望んで軍事を学ぶことを清朝に願い出て、同年9月に日本へ留学した。東京振武学校を経て、金沢砲兵第9連隊で実習に臨んだ。しかし軍人生活に適応できず、法政大学での学習に転じた。
1907年
帰国した。以後、兵部主事、東三省総督署軍事参議、吉林陸軍第1協統統領、吉林督練処参議を歴任した。
1909年
ロシアとアメリカへ外遊し、軍事等の視察を行った。中華民国成立後、王揖唐は袁世凱の下で総統府秘書、参議、顧問などをつとめた。また、政党活動にも参加し、民社、共和促進会、統一党の3党を経て、黎元洪が理事長をつとめる共和党で幹事となった。
1913年
チベット選出の第1期国会参議院議員となる。5月、共和党、民主党、統一党の3党合併により進歩党が成立すると、王は理事をつとめた。その後も袁を支持する路線をとり続け、約法会議議員として中華民国約法制定に参与する。参政院参政、吉林巡按使、内務総長を歴任した。また、フランスやドイツへ外遊して陸軍の組織の視察も行い、袁が皇帝即位を目論んだ際には『国華報』という新聞を創刊してこれを支援する言論を張った。
1916年
6月の袁世凱死後は、王揖唐は安徽派に属する。翌年11月に段祺瑞が臨時参議院を組織すると、王揖唐が議長に就任した。
1918年
3月8日、王は徐樹錚とともに安福倶楽部を設立し、安徽派のための様々な政治活動に従事した。同年8月2日、王揖唐は衆議院議長に就任して、以後、「安福国会」と称される国会運営を主導した。9月には大総統に徐世昌を選出している。このほか、南方政府との和平交渉では首席代表を務め、私立民国大学や中華大学の校長にもなった。
1920年
7月の安直戦争で直隷派に安徽派が敗北すると、同年8月3日に安福倶楽部と安福国会は徐の命令により解散させられた。王も指名手配されたため、日本へ亡命して、しばらくは著述活動に専念した。
1924年
10月の北京政変(首都革命)を経て段祺瑞が臨時執政として復権する。王揖唐もこれに参加し、11月には安徽省長兼督弁軍務善後事宜に就任した。
1925年
2月、善後会議議員となる。中国国民党の北伐に際しては、王は北方各派に与してこれに抵抗しようとした。
1928年
北伐完了と共に王は指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込み、再び著述活動に励んだ。
1931年
国民政府の政治家として復帰し、東北政務委員会委員に任命された。その後、国難会議会会員、華北戦区救済委員会委員、行政院駐平政務整理委員会委員、冀察政務委員会委員、天津匯業銀行総理を歴任した。
1936年
5月、王揖唐は親日の蒙古軍政府に参加し、実業署署長に任命された。
1940年
3月の南京国民政府成立と共に、王揖唐は考試院院長兼華北政務委員会委員となる。6月には華北政務委員会委員長に就任した。さらに、中央政治委員会委員、内務総署督弁にも任じられている。
1945年
12月5日に王揖唐は北平の病院で逮捕される。当初、王は重病とみなされて裁判にかけられなかったが、後にその仮病が発覚するなどして翌1946年(民国35年)9月に裁判に付されることになった。河北高等法院で死刑が言い渡された後、南京首都高等法院で当該判決が確定する。
1948年
漢奸の罪により北平の監獄で銃殺刑に処せられた。享年72(満70歳)。

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