買取品目絵画 洋画
キース・ヘリング
- 1958年
- アメリカ、ペンシルバニア州のレディングに生まれ、カッツタウンで育つ。漫画の描き方を父親から学び、ウォルト・ディズニーの影響を受ける。
- 1977年
- 高校を卒業後、ピッツバーグに移る。 商業美術学校であるアイビースクールに入学。 コマーシャルアーティスト志望ではないこと事に気付き、退学。 カーネギー美術館で開催された、ピエール・アレシンスキーの大回顧展に感銘を受ける。 ピッツバーグのアーツ・アンド・クラフツ・センターで初個展開催。
- 1978年
- ニューヨークに移り、スクール・オヴ・ヴィジュアル・アーツ に入学。 ドローイング以外にもパフォーマンス、インスタレーション、自分のペインティングの経過をビデオ撮影、キース・ソニアから記号論を学ぶなど、幅広い分野を経験する。この頃、ケニー・シャーフ、ジョン・セックスそしてジャン=ミシェル・バスキアらと知り合う。ノヴァ・コンベンションに参加し、ウィリアム・バロウズとブライオン・ガイシンに強い影響を受ける。
- 1980年
- 生涯描き続けた、動物や人間、空飛ぶ円盤などのドローイングが描かれる。 クラブ57にて展覧会のキュレーション、P.S.122でも展示を企画する中、トニー・シャフラジ画廊で助手として働く。 ケニー・シャーフとタイムズ・スクエアにあるスタジオをシェアする。
- 1981年
- 地下鉄の黒紙が貼られていた広告板に、白いチョークで絵を描くサブウェイ・ドローイングを開始する。 グラフィティー・アーティストのLA IIと知り合う。 ダウンタウンのブルーム ストリートにあるスタジオに移る。
- 1982年
- パラダイス・ガラージで1ヶ月ドローイングを展示。 LA IIとトニー・シャフラジ画廊で展覧会。
- 1983年
- 作品にブレークダンスから影響を受けた、頭で回転したり身体をひねった人物が登場する。 アンディー・ウォーホルと知り合う。この頃、マドンナとも出会う。 日本に初来日、ギャルリー・ワタリで個展。 ホイットニー・ビエンナーレ(ニューヨーク)、サンパウロ・ビエンナーレに参加する。
- 1985年
- パリ・ビエンナーレに参加。 スウォッチの時計デザイン、ドイツ製薬会社の商品ラベルのデザインなどを手がける。 反アパルトヘイトのポスターを2万枚印刷し、配布する。 ロイ・リキテンスタイン、オノ・ヨーコ、ジャン=ミシェル・バスキア、アンディ・ウォーホルらとポスターを制作。
- 1986年
- サブウェイ・ドローイングを中止。 アムステルダム、ステデリック美術館で個展。 自由の女神100周年記念にあたり、1000人以上の子供たちと巨大な自由の女神像を垂れ幕に描く。 ベルリンの壁に約100メートルの壁画を描く。
- 1987年
- パリ、ポンピドウー・センターの開設10周年記念展に出品。 ミュンヘン、アーティストが集い巡回遊園地をつくり上げるプロジェクト「ルナ・ルナ」に、ロイ・リキテンスタイン、デイヴィット・ホックニー、ジャン=ミシェル・バスキア、ヨーゼフ・ボイス、サルバドール・ダリらと共に参加。 東京、多摩市のパルテノン多摩で約500人の子供たちと絵を描く。
- 1988年
- 東京にポップショップを開店する。 ニューヨーク、「アート・アゲインスト・エイズ」展に出品。 ホワイトハウスにて「ホワイトハウスの復活祭」を描き、ワシントンの子供病院に寄贈する。 エイズと診断される。
- 1989年
- エイズのキャンペーンを広める運動に従事する。 キース・へリング財団を設立。
- 1990年
- 2月16日、ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのアパートでエイズにより死去。
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