買取品目掛軸 日本画
一休宗純
- 1394年
- 京都に生まれる。
- 1400年
- 6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。
- 1406年
- 早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』は洛中の評判となった。
- 1408年
- 15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』も洛中の評判となった。
- 1410年
- 17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。
- 1415年
- 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。
- 1420年
- ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
- 1428年
- 称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという。
- 1470年
- 摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。
- 1474年
- 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
- 1481年
- 酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。
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