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買取品目掛軸 日本画

柳沢 淇園

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1703年
江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれる。
1711年
8歳ころにはすでに狩野派の画法を学んでいた。
1715年
12歳にしてこれを形骸化していると批判し、渡辺秀石門下で長崎派の英元章(吉田秀雪)に師事し中国画法を学ぶ。。祇園南海と交流があり画法を受け画譜を贈られている。その後独学で元明から将来した古書画や『芥子園画伝』などの画譜を模写し画論を学び、彩色精密な写生画を修めた。
1718年
15歳で『文実雑話』を、その後に『青楼夜話』を著し、また『青楼十牛図』を画いたと伝えられている。いずれも現在まで伝わっていないがその早熟ぶりが窺われる。
1728年
兄 保誠の家は凶事が頻発し保誠が早世すると家が絶えてしまった。このため里恭は一旦は家督を継いだが、不行跡で家督相続を差し止めされる。
1756年
晩年は、藩の渉外を担当し、しばしば財政難に苦しむ藩のため金策に奔走した。時には周囲から妬まれ、「銀子の功」に立身を画策したと讒言されたようだ。晩年の宝暦6年(1756年)頃からは、「万民の大益、諸国民の益」のため、北前船を播磨国の市川と但馬国の円山川に通す航路を開拓する計画に、自藩と直接関係がないにもかかわらず賛同、その資金集めに尽力する。しかし、幕府の許可は得たものの、出資者の事情により計画は中止されてしまった。企画倒れに終わったものの、耽美で趣味的な文人画家として語られることが多い淇園が、一方で経世済民の理想を内に秘め人間社会に対する強い関心を持ち続けたことを裏付ける逸話である。
1758年
この計画挫折が響いてか、その暫く後に死去。享年56。

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