買取品目掛軸 日本画
山本 梅逸
- 1783年
- 名古屋天道町(現在の中区大須)で、欄間の彫刻師山本有右衛門の子として生まれる。
- 1796年
- 父は梅逸が13歳のときに没し生活は貧窮したが、母は子どもの教育に心掛け、梅逸に和歌の手解きをしたという。幼い時から画を好み、地元の絵師山本蘭亭に学ぶ。蘭亭は梅逸の画才を見抜き張月樵に入門させた。その後、尾張画壇のパトロンで古書画の収蔵家として知られた豪商神谷天遊(永楽屋伝右衛門)の庇護を受け、天遊に理論面での指導を受けつつ、同家に所蔵される中国古画の臨模が許された。天遊の元で、生涯の盟友となる7歳年長の中林竹洞とも出会う。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき王冕(元時代)の「墨梅図」を見て深く感銘したことから梅逸の号を授けられたといわれる。同じくこのとき兄弟子の竹洞は李衎(りかん)「竹石図」に感銘したことからその号を与えられたという。
- 1802年
- 恩人の天遊が病没すると師友の竹洞と共に京都に赴く。寺院などに伝わる明清の古書画を盛んに臨模し、明末の文人楊文聡の山水画を購入するなど書画の収集にも傾注した。新天地を求め上洛した二人だが、京都画壇の壁は厚く画業は停滞し、竹洞の父の危篤の報を聞いて、一旦は名古屋に帰る。
- 1832年
- 再び京都に出て、以降画家として認められ京都の文人社会に知られるようになる。書画会の出品も多く次第に京阪で人気の画家となり、年収が200両にもなったという。頼山陽などと交遊し煎茶にも親しみ、その茶は梅逸流と称された。
- 1844年
- 煎茶会席を彩る席飾りの図案集『清娯帖』も描き、名古屋の煎茶普及にも一役買っている。更に笛や陶芸も趣味にしていたという。日本各地に遊歴し、江戸では大窪詩仏と交流。尾張藩主の邸宅で谷文晁とともに画作を行っている。
- 1854年
- 尾張藩御用絵師格として取り立てられ、御用人支配の地位を得た。帯刀、拝謁も許され御園町(現在の名古屋市中区)に移り住んだ。
- 1856年
- 享年75。
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