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買取品目掛軸 日本画

荒木 寛畝

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1831年
江戸芝赤羽橋で、田中梅春(永周、文周)の4男として生まれる。
1839年
両親は奉公に出す前に教養の一つとして絵を習わせようと、9歳の時、谷文晁系の絵師・荒木寛快に入門させる。しかし、生来を絵を描くのが好きだった寛畝は、算盤などの他の稽古に全く身が入らなくなり、両親は奉公に出すのを諦めたという。
1848年
18歳で増上寺の冠誉大僧正の随身となる。
1852年
22歳の時、師から画才を見込まれ養子となり荒木姓を継ぎ、随身を辞した。
1856年
同じく寛快の養子で義兄である荒木寛一と共に秋月藩主黒田長元の屋敷で席画を行う。
1859年
屋敷で席画を行った際、長元の甥として同席していた土佐藩主山内容堂の目に止まり、1859年(安政6年)6月土佐藩の御用絵師となる(5人扶持・茶坊主主格)。御用絵師になるための試験として絵を描くことになった際、得意な画題を問われると寛畝は「人物が得意だ」と答えて美人画4幅(楊貴妃、西施、趙飛燕、王昭君)を容堂の前で描いた。
1872年
湯島聖堂で行われた博覧会に出品された内田政雄招来の油彩画を見て感銘を受ける。同年6月容堂が亡くなり、一時本気で殉死や出家を考えるも、川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、国沢新九郎に洋画を学ぶ。
1879年
高橋由一、五姓田義松とともに、元老院の命で明治天皇、昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描くという大任を任された。寛畝は、写真を参考に下絵を描いたがこれに満足せず、本人を写生をする機会を得て《英照皇太后御肖像》(御物)を描き上げた。
1881年
しかし、その心労からくる重圧は相当なもので、これがきっかけとなって日本画へ復帰し、1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会には油画額《耕作の図》《養蚕の図》を出品しているものの、翌年の第1回内国絵画共進会には《花鳥》《古代人物》の日本画を出している。
1884年
第2回パリ府日本美術縦覧会に《孔雀》《雪中三顧》を出品。同年、第2回内国絵画共進会では審査員を務めるとともに、《太真王夫人》《花鳥》を出品し銅賞を受賞。寛畝は既に弟子をもつほどに名の知られた画家ではあったが、生活は厳しく当時の他の日本画家と同様、輸出用の絵をやむなく量産して糊口をしのいでいたという。
1890年
しかし、第3回内国勧業博覧会出品の《孔雀図》が妙技二等賞、宮内庁買上げの栄誉を受け、60歳の還暦をすぎてその画名は高まった。
1893年
女子高等師範学校で教鞭をとり、翌年には華族女学校(現在の学習院女子中・高等科)でも講義を受け持った。
1898年
橋本雅邦の後任で東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任。
1900年
帝室技芸員に任命された。内外の博覧会にも出品し、同年のパリ万国博覧会に《孔雀図》で銀牌受賞。
1905年
セントルイス博覧会では二等賞受賞。
1906年
ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツの会員に推される。
1907年
東京府勧業博覧会にやはり《孔雀図》で金賞受賞。同年の第1回文展では審査員を務めている。更に、従五位に叙せられ、勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となった。
1915年
晩年になっても精力的に活動したが、長らく患っていた糖尿病がもとで85歳の生涯を閉じた。

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