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ピカソ(パブロ・ピカソ)

1881年
1881年10月25日午後11時15分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス。
1891年
ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父、ホセ・ルイスは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
1892年
ラ・コルーニャの美術学校に入学。
1894年
父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる。
1895年
バルセロナに移住、美術学校に入学。1月の猶予のある入学製作を一週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
1897年
父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた全国展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことやそれ以上のことが学べなかった。ピカソは失望し、学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。
1898年
春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアン)で療養。
1899年
バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。
1900年
2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響が色濃い線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
1901年
雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。
1902年
画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。
1904年
詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
1905年
「ばら色の時代(Picasso’s Rose Period)」または「桃色の時代」が始まる(~1906年)。ガートルード兄妹のパトロンを見つける。
1907年
『アビニヨンの娘たち』製作。
1909年
フェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
1911年
ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の1人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。
1912年
モンパルナスへ移る。
1913年
父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
1916年
パリ郊外モンルージュに移る。
1917年
バレエ『パラード』の装置、衣装を製作。
1918年
オルガ・コクローヴァと結婚。パリ8区ラ・ボエシー (Rue La Boétie) に移る。
1919年
ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
1920年
『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
1921年
息子パウロ誕生。
1922年
コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
1924年
バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。
1928年
彫刻に専心。
1930年
『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
1931年
『変身譚』の挿絵を制作。
1932年
マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
1934年
スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
1935年
娘マハ誕生。詩作。
1936年
人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。パリ6区グラン=ゾーギュスタン河岸 (Quai des Grands-Augustins) 7番地に居住(1955年まで)。
1937年
『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
1939年
ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
1940年
ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
1941年
戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944年
パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
1945年
ロンドン、ブリュッセルで個展。
1946年
フランソワーズ・ジローと共同生活。
1947年
息子クロード誕生。陶器製作。
1949年
娘パロマ誕生。
1951年
『朝鮮の虐殺』製作。
1952年
『戦争と平和』のパネルを制作。
1953年
リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
1954年
ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
1955年
カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。妻のオルガが死去。
1958年
『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
1961年
ジャクリーヌ・ロックと結婚。
1964年
日本、カナダで回顧展。
1966年
パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
1967年
シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
1968年
版画に専心、半年間に347点を製作。
1970年
アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
1973年
南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。ヴォーヴナルグ城に埋葬された。

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