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松本 零士
- 1938年
- 福岡県久留米市出身。石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる。二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。
- 1954年
- 福岡県立小倉南高等学校1年生のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある。
- 1957年
- 毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされたものの、月刊少女雑誌『少女』の連載が決定して上京。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけた。
- 1960年
- 1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である。
- 1971年
- 出世作となったのは1971年から『週刊少年マガジン』に連載した「男おいどん」である。同作は人気となり、1972年に講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。
- 1974年
- 秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。
- 1982年
- 松本アニメブームは1982年の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となる。
- 1983年
- 夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス』は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった。
- 2003年
- 画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。
- 2006年
- 宝塚造形芸術大学のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。
- 2015年
- 妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる。
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