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手塚 治虫

1928年
大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。
1939年
自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。
1941年
大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。
1945年
北野中学を卒業。勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。
1946年
プロデビュー作の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。
1947年
酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『新寳島』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。
1950年
上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『ジャングル大帝』の連載開始。
1951年
1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『あどりぶランド』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。
1952年
医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『鉄腕アトム』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』に引き続いて連載。
1953年
東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『リボンの騎士』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。
1958年
第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。
1961年
奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。
1963年
自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の日本初毎週30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
1965年
日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』がフジテレビで10月6日から放送。毎日新聞社の特派員記者としてニューヨーク世界博覧会を取材するために渡米した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前に於いて生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。
1967年
虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「火の鳥」の連載を開始。
1968年
虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。
1970年
『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞。日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。
1971年
虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、朝日放送(現:朝日放送テレビ。TBS系列)で放送。
1972年
『ブッダ』を連載開始。
1973年
虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の債務保証を行っていたため債権者に追われる身となるが、知人の葛西健蔵(現・アップリカ・チルドレンズプロダクツ会長)が後見人となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『ブラック・ジャック』の連載開始。
1975年
漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
1977年
漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『手塚治虫漫画全集』(当初は第1 – 第3期の全300巻を予定)刊行開始。
1978年
日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。
1979年
児童漫画の開拓と業績により巖谷小波文芸賞受賞。
1980年
東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
1983年
漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。
1984年
実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞。
1985年
実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民栄誉賞受賞。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。
1986年
漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。
1988年
戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。
1989年
胃癌により入院中の半蔵門病院にて死去(享年60)。

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