歌川 国芳 | 絵画 浮世絵 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目絵画 浮世絵

歌川 国芳

1798年
江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。
1810年
12歳で「鍾馗提剣図」を描く。初代歌川豊国(1769年 – 1825年)に目を留められる。
1811年
このことがきっかけとなり、1811年(文化8年)に15歳で歌川豊国の弟子として受け入れられ、歌川派の1人として修業を開始した。
1814年
歌川派入門後、職業絵師としての歌川国芳の初めての作品は、「竹塚東子」による合巻「御無事忠臣蔵」の表紙と挿絵であると考えられている。
1815年
錦絵「市川市蔵の金輪五郎今国・三代目中村歌右衛門のおみわ」(『妹背山女庭訓』)頃から一枚絵を制作し始めており、この年の錦絵に『三世中村歌右衛門の春藤次郎左衛門』がある。
1816年
錦絵「浅尾勇次郎・五代目岩井半四郎・七代目市川団十郎」(『清盛栄花台』)を描いており、本作は斎号を用いた年代を特定できる最初の作品であった。国芳は学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く。この時期は役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅かであった。また、勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。
1818年
錦絵『平知盛亡霊図』や『大山石尊良弁滝之図』によって一時は人気を得た。
1823年
銀座の川口屋正蔵及び日本橋の川口屋長蔵という版元から役者絵を出すも、師豊国や兄弟子国貞の人気に勝てず、その後しばらくは不遇であった。
1827年
師の豊国没後の文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズ が評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。
1830年
新和泉町玄冶店の借家に住始め、朝桜楼の号を使用し始めた。この頃、武者絵、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画などを近代的な写実眼によって制作している。
1842年
天保の改革による質素倹約、風紀粛清の号令の元、天保13年(1842年)には国芳や国貞らも人情本、艶本が取締りによって絶版処分となる。また浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。
1843年
『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年(天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中・水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱は真田幸貫、坂田金時は堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光は土井利位、土蜘蛛は筒井政憲、矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
1844年
国芳は葛飾北斎門人の大塚道菴の紹介により、北斎と出会っている。なお、この時、独楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、この道菴を雇って補筆させた。同年、『縞揃女弁慶』において芳桐印を使用する。
1848年
国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』(1848年(嘉永元年) – 1854年(安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。
1853年
国芳が赤穂浪士を描いた翌年の嘉永6年(1853年)、浦賀にはペリーの黒船が来航した。また、同年に国芳は新和泉町玄冶店に居住しており、6月24日に料理茶屋河内屋で梅屋鶴寿主催の書画会において30畳敷きという大紙に『九紋龍史進憤怒の図』を自らの着物を墨に浸してえがいている。同年7月、大判2枚続『浮世又平名画奇特』の絵が時世を風刺したとしてお咎めを受ける。
1856年
初め頃に中風を患い、4年前後辺りから人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始める。
1861年
65歳の生涯を閉じた。

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