買取品目絵画 浮世絵
歌川 広重
- 1797年
- 江戸の八代河岸(やよすがし)の定火消同心(じょうびけしどうしん)、安藤源右衛門の長男として生誕。幼名は徳太郎、のちに重右衛門、鉄蔵、徳兵衛と名前を変えた。
- 1809年
- 2月に母が他界し、父も同年12月に他界。これにより広重は13歳にして家督を継ぐ。
- 1811年
- 幼いころからの絵心が勝り、15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。
- 1812年
- 師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられる。
- 1818年
- 一遊斎の号を使用してデビュー。
- 1821年
- 同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。
- 1823年
- 養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
- 1828年
- 始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。
- 1830年
- 一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
- 1832年
- 仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている。
- 1833年
- 「東海道五十三次」を発表。当時の行楽ブームも相まってこの作品は大ヒット。風景画家としての広重の名は葛飾北斎以上に世間に評価される。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
- 1858年
- 安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。
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