竹久 夢二 | 絵画 日本画 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品高価買取なら美術品店「豊後」

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買取品目絵画 日本画

竹久 夢二

1884年
岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。
1899年
兵庫県神戸市の叔父宅に寄宿しつつ兵庫県神戸尋常中学校(後の神戸一中、現在の兵庫県立神戸高等学校)に入学するが、12月には家の都合で中退。
1900年
父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。
1901年
家出して単身上京。
1902年
早稲田実業学校専攻科入学。学生時代、スケッチを『読売新聞』などに投書。
1903年
制作年らしき数字「1903」が記された、文章・絵画からなる冊子『揺籃』が2018年に発掘されている。
1905年
友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科中退。
1906年
童話雑誌『少年文庫』の挿絵を描く。
1907年
岸たまきと結婚。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当。
1909年
たまきと協議離婚。この年、最初の著書『夢二画集-春の巻』発刊、ベストセラーとなる。
1910年
たまきと再び同棲し、その後、二児をもうける。大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。夏、房総方面に旅行し、『宵待草』を発想。
1911年
次男・不二彦誕生、たまきと別居。月刊『夢二 ヱハガキ』発売。
1912年
雑誌『少女』誌上に、“さみせんぐさ”の筆名で『宵待草』原詩を発表。京都府立図書館にて「第一回夢二作品展覧会」。
1913年
11月 絵入り小唄集『どんたく』出版、その中の一節に『宵待草』を現在の三行詩で発表。
1914年
日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、来店した笠井彦乃と出会う。
1915年
婦人之友社より雑誌『子供之友』『新少女』創刊、絵画主任として挿絵を描き始める。たまきとは離別
1916年
2月、三男の草一が生まれる。セノオ楽譜『お江戸日本橋』の表紙画、以降270余点を作画する。東京を離れ、京都二寧坂に転居。草一、他家へやられる。
1917年
高台寺近くに移り彦乃と同棲。金沢旅行中、「夢二抒情小品展覧会」を開く。『宵待草』に宮内省雅楽部のバイオリニスト多忠亮が曲をつけ、芸術座音楽会にて発表。
1918年
『宵待草』がセノオ楽譜から発刊、これを機に全国的なヒットとなる。長崎方面に旅行。彦乃入院、東京に戻る。
1919年
寄宿先の本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉を紹介される。日本橋三越にて「女と子供に寄する展覧会」。
1920年
彦乃25歳で病没。『長崎十二景』『女十題』のシリーズ制作。
1921年
お葉(夢二が名付ける・本名は佐々木カ子ヨ)と渋谷に所帯を持つ(6年後には離別)。福島・会津を旅行、各地で展覧会。
1924年
アトリエ兼自宅「少年山荘」(山帰来荘)を東京府荏原郡松沢村松原(現・東京都世田谷区松原)に建設。この年に発刊された雑誌『婦人グラフ』に掲載するための表紙絵、口絵用に浮世絵の技法による新版画といわれる木版画『秋のしらべ』などを発表。
1927年
『都新聞』に自伝絵画小説『出帆』を連載。
1932年
前年より米国に1年3ヶ月の滞在、西海岸各地にて個展を開くが、米不況もあり受け入れられず不調。9月にパナマ運河-大西洋を経て渡欧。約1年の滞欧中、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。
1933年
ドイツ首都ベルリンに滞在の後、8月19日にイタリアのナポリを発ち、9月18日、神戸に帰国する。10月26日、台湾を訪れて講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。11月11日、帰国、結核を患って病床につく。
1934年
満49歳11ヶ月で逝去。

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