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川合 玉堂

1873年
11月24日、愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。
1877年
岐阜尋常高等小学校を卒業。9月、青木泉橋の紹介状をもって京都望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。
1880年
勧業博覧会出品に当り、玉泉の玉と外祖父竹堂をとって、「玉堂」と改める。11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。
1893年
親戚の大洞家の次女富子と結婚。4月、母を急性肺炎で亡くす。
1895年
京都開催の内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「龍虎の図」と「十六羅漢」をみて、深く感動する。9月、長男真一が生まれる。
1896年
4月、上京。橋本雅邦の門に入る。
1898年
10月、日本美術院創立。雅邦に従ってこれに加わる。
1906年
五二共進会審査員に任命せられる。
1907年
文展審査員に任命せられる。3月、東京勧業博覧会の審査官を務める。
1910年
9月8日、イタリア万国博覧会鑑査委員に任命せられる。
1914年
農商務省より大正博覧会審査員に任命せられる。
1915年
5月19日、東京美術学校教授を拝命。
1916年
第10回 文展に六曲二双の彩色画「行く春」を出品。
1917年
別邸「二松庵」を神奈川県横浜市金沢区に建設。6月、帝室技芸員を拝命。
1918年
東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。
1919年
9月、帝国美術院会員となる。
1922年
5月、第1回 朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。
1928年
1月、昭和天皇御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。11月、記念章を授与せられる。
1931年
フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグランオフイシエー・クーロンヌ勲章を拝受。
1933年
10月、ドイツ政府より赤十字第一等名誉章をおくられる。
1935年
6月、帝国美術院会員に任命せられる。11月、勲三等瑞宝章を賜る。
1936年
2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及び帝国美術院会員を辞す。11月、平正改組による第1回文部省展覧会開かれる。
1940年
11月10日、紀元2600年式典当日、文化勲章をうける。
1942年
俳句集「山笑集」刊行、木活和綴で俳句百句を収録。
1944年
歌集「若宮集」をつくる。7月、東京都下西多摩郡三田村御岳に疎開。12月、更に古里村白丸に転ずる。
1945年
5月、牛込若宮町の自宅戦災にあい焼失。12月、三田村町御岳に移り「偶庵」と称する。
1947年
11月、歌集「多摩の草屋」刊行。
1948年
11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。
1949年
11月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。
1952年
3月、兼素洞の企画によって、玉堂、大観、龍子の三人展雪月花展を開催。
1953年
4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影。11月、病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間制作を行わず。
1955年
3月、兼素洞の企画によって、大観、玉堂、龍子三人展を開く。大観は松、玉堂は竹、龍子は梅の課題である。10月、名誉都民に推薦される。11月、青梅名誉市民に推薦される。
1957年
2月、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養。6月30日、一時恢復に向かうが、上旬頃より再び悪化。午後零時40分急逝。勲一等旭日大綬章を賜わる。


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