買取品目絵画 日本画
岩沢 重夫
- 1927年
- 現在の大分県日田市豆田町に生まれる。
- 1944年
- 14歳の時に真珠湾攻撃が勃発、父親の勧めで17歳にして自ら入隊を志願。終戦までの1年5ヶ月の間に滋賀県で訓練を受けた後、盛岡、福生、万世、横田と日本各地を転々と移動。中でも鹿児島県の万世飛行場という特攻基地に配属されたことが、その後の人生を大きく左右することとなる。ここで岩澤重夫は、教官助手を務め、偶然にも戦闘機のマニュアルを手書きで制作する係を務めることとなった。「絵が得意だったので終戦まで自分には、特攻命令が出なかった。沖縄の海に消えていった友人のために、自分は絵を描くことを神様に命じられたのだ」と後に伝記本に記している。
- 1947年
- 京都市立美術専門学校に入学。
- 1951年
- 「芥子」が日展に初入選を果たす。
- 1954年
- 独学で制作を続けていたのだが、限界を感じ意を決して堂本印象(1891年-1975年)率いる東丘社に入塾する。
- 1955年
- 師匠の勧めで印象の姪にあたる三輪蓉子と結婚。親の反対を押し切って作家活動を始め、望みの綱を模索していた青年画家にとって願ってもない良縁だった。とはいえ、このころは作家としての収入などほとんどなく、仕事は新聞の挿絵や幼稚園の絵画教室の講師くらいで、満足な食事ができるはずもない日々を過ごしていた。
- 1957年
- 京都市消防局の月刊誌の表紙やパンフレットなどの原画を制作することとなり、毎月仕事が継続するようになる。その後「みんなで文化財を火災から守ろう」という仏画のポスターを長年制作するなど、京都市消防局との仕事が50年間続くことになる。またこの年は、左京区松ヶ崎に小さな中古住宅を購入。
- 1960年
- 「葦のある沼」が京都市展で京都市長賞、「河岸」(日田市蔵)が関西総合展で第一席、「堰」(京都府立総合資料館蔵<京都文化博物館管理>)が新日展で特選・白寿賞という慌ただしくも京都の日本画業界でようやく新人として頭角を表す節目の年となる。
- 1961年
- 33歳でようやく日展特選を受賞した翌年は、無鑑査出品として初めて大分の九重連山を描き「晨暉」(大分市美術館蔵)が再び新日展特選となる。
- 1964年
- それまで日展に出品する際には、先輩の仕事場を借りて制作していたのだが、ようやく左京区松ヶ崎に土地を購入し仕事場兼住宅を手に入れる。このころ春の東丘社展には抽象画を出品し、秋の日展には風景画を出品するという二つの研鑽を積む時間が流れていた。全く具体的な形のない絵画作品から釘、布、皿、板、ピンポン球、アクリル板などを使用した厚みのある作品まで、海外の美術動向を参照し自身の経験に積み重ねてゆく作風が続いていた。
- 1966年
- 師匠の京都府立堂本印象美術館が開館する。最大時74名在籍していた東丘社の一員として一翼を担い懸命に開館準備を進めたことが、後の作家活動に大きな経験となったと伝記本で語っている。
- 1968年
- 「昇る太陽」(日田市蔵)が新日展菊華賞となる。菊華賞とは、日展で審査員になるための登竜門として中堅作家に立ちはだかった大きな関門だったが、1970年を最後にこの賞は廃止された。
- 1971年
- ようやく日展審査員となる。
- 1975年
- 48歳にして新たな節目の歳となる。3月に最後まで作家になることを認めなかった父親が他界し、9月には師匠の堂本印象が永眠した。22年間続いた弟子と師匠の関係は、ここで終止符を打つこととなる。その後「祈」(日田市蔵)を位双展に出品し、これ以後一切抽象画の制作を中止する。
- 1979年
- 日田市長福寺ふすま絵「大心海」を制作。
- 1982年
- 初めて「嚝」(京都国立近代美術館蔵)が文化庁買上優秀美術品となる。
- 1983年
- 高山辰雄(1911年-2007年)率いる中国訪問に4度参加。
- 1985年
- 「古都追想(西安)」が山種美術館大賞となる。その年は、大分県の耶馬渓を描いた「氣」(京都国立近代美術館蔵)が改組日展文部大臣賞となる。1970年代の小品は、薄紫色の海景や山並みを描いた風景画と洋蘭と花瓶などを描いた白い静物画が多かったが、1980年ごろから緑の山に白い滝を描いた小品を制作するようになり、ようやく画廊企画展の人気作家となる。
- 1989年
- 京都の祇園祭の菊水鉾見送り原画「菊水渓聲」を制作。暮れに仕事場を京都の中心から車で約一時間離れた右京区京北下町に移す。そこは、長年通い続けた鮎釣りのできる上桂川のほとりで、師匠、印象の通っていた鮎料理屋のあるゆかりの場所だった。
- 1990年
- 約15メートルの大作「天響水心」(大分銀行蔵)を制作。
- 1993年
- 「渓韻」(後に日本芸術院蔵)に対し日本芸術院賞を受賞し日展理事に就任。
- 2000年
- 8.6メートルの大作「豊山豊水・四季」(大分合同新聞社蔵)を制作。同年日本芸術院会員となる。
- 2001年
- 日展常務理事に就任。
- 2004年
- 鹿苑寺(金閣寺)客殿障壁画の制作を始める。
- 2009年
- 障壁画63面は、無事完成したのだが、全て金閣寺に設置された姿を見ることなく体調を考慮して南丹市の病院に入院する。その後11月4日に文化功労者に顕彰されたのだが、3日後の11月7日に肺炎のため81歳11ヶ月の生涯を閉じる。翌年自宅に残されていた作品、素描、スケッチブック、陶芸作品など約1000点、愛用の墨、硯、筆など約500点と福田平八郎、堂本印象、香月泰男などの収集美術品を全て遺族から大分県日田市に寄贈されたのだが、2016年にようやく収蔵庫が完成し京都から日田市複合文化施設AOSEに輸送された。
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