高村 光太郎 | 彫刻・ガラス工芸 | 買取作家・取扱い品目 | 福岡の絵画・美術品・骨董品の高価買取なら「豊後」

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買取品目彫刻・ガラス工芸

高村 光太郎

1883年
東京府東京市下谷区下谷西町三番地に彫刻家の高村光雲の長男として生まれる。
1896年
下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。
1897年
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。
1906年
3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在。
1909年
帰国。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安で悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。
1912年
駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。
1914年
10月15日に詩集『道程』を出版。
1942年
4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。
1945年
4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も花巻空襲で被災し、辛うじて助かる。「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。
1950年
戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。
1952年
青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。
1956年
4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。

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