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林武

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1896年
12月10日、東京市麹町区上二番町十五番地に6人兄弟の末子として生まれる。武の父・甕臣(みかおみ)は国語学者、祖父・甕雄(みかお)は歌人、曽祖父・国雄は水戸派の国学者だった。
1909年
牛込区余丁町小学校を卒業。同小学校では東郷青児が同級生で、担任の先生だった本間寛に東郷とともに画才を見出される。
1910年
早稲田実業学校に入学、学費が払えず実家が営んでいた牛乳販売店で労働しながら通学するが、体調を崩して中退する。
1913年
東京歯科医学校に入学するが、翌年には中退する。
1917年
新聞や牛乳の配達、ペンキ絵を描いたりして生計を立て画家を志す。
1920年
日本美術学校に入学するが、翌年には中退する。
1921年
第8回二科展にて初入選し、樗牛賞を受ける。渡辺幹子と結婚。
1922年
妻幹子をモデルにした「本を持てる婦人像」を制作。
1923年
関東大震災被災のため、神戸に移住する。
1928年
「横たわれる女」制作。
1930年
二科会を脱退。独立美術協会を創立する。「裸婦」を制作。
1934年
3月 渡欧。フランス(パリ)・ベルギー・オランダ・イギリス・ドイツ・スペインを訪れる。「コワヒューズ」を制作。
1935年
東京都中野区新井町に居を移す。「裸婦」を制作。
1937年
7月 松坂屋で滞欧作展を開く。
1938年
「室戸岬風景」を制作。
1940年
皇紀2600年奉祝美術展覧会に「肖像」を出品。
1942年
「静物」を制作。
1944年
持病の胃潰瘍が悪化、静養をかねて西多摩郡網代村にこの年から2年間疎開する。
1946年
「うつむき女」を制作。
1948年
「静物」を制作。この年から坂上星女をモデルにした連作を描き始める。
1949年
「梳る(くしけずる)女」、「静物(鯖)」を制作。第1回毎日美術賞を受ける。
1950年
読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に前々年制作の「静物」を出品。「星女嬢」を制作。
1952年
安井曾太郎の後任として、東京芸術大学美術学部教授に就任。
1953年
風景に題材を求め十和田に滞在。「十和田湖」の5点の連作を生む。「横向き少女」を制作。
1954年
「斜面の顔」「ネッカチーフの少女」を制作。
1956年
「伏目の女」で現代日本美術展大衆賞を受ける。「卓上花」「月ヶ瀬」を制作。
1957年
「赤衣の婦人」を制作。
1958年
日本橋髙島屋において180点出品の大規模な回顧展を開く。「熱海風景」を制作。
1960年
5月 渡仏。「薔薇」「ノートルダム」「エッフェル塔」など23点を制作。
1961年
9月 髙島屋において滞欧作展開催。美術出版社よりそれまでの自身の画業を集大成した画集が出版される。
1962年
「立てる舞妓」など、舞妓をモデルにした連作を描く。
1963年
週刊誌の表紙のため「少女」を制作。12月 東京芸術大学教授を定年退職し牛島憲之に教授職を託す。渋谷区に居を移す。
1964年
富士山を描き始める。再び妻をモデルにした「三味線」を制作。
1965年
自身の生い立ちと芸術論を述べた初めての著書『美に生きる — 私の体験的絵画論』を講談社より出版。薔薇の連作を始め、「花」を制作。
1966年
「滝富士」「海」「裸婦」を制作。
1967年
「赤富士」を制作。第37回朝日賞受賞。11月 文化勲章受章。
1968年
富士山と並行して、波打ち際の怒涛を題材にした連作を手がける。『週刊朝日』の依頼により銀座の街頭を描く。
1969年
「ばら」「怒涛」「花帽子の女」を制作。
1970年
富士山の連作「朝霧富士」3点を制作。八百屋お七に扮した女優の菊ひろ子を描く。
1971年
国語問題協議会会長に就任。正かなづかいの復権を訴えた著書『国語の建設』を講談社より出版。
1972年
講談社より刊行予定の画集のため、初めて自画像を描く。
1973年
「少女」を制作。
1974年
前々年から展覧会に旧作を多数出品。
1975年
3月29日 慈恵会医科大学付属病院に入院。6月23日 肝臓癌のため79歳で没した。病床で描いた「薔薇」が絶筆となった。

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