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買取品目掛軸 日本画

渡辺 省亭

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1852年
江戸神田佐久間町に生まれる。
1864年
12歳の時、牛込の質屋に奉公に出るが、絵ばかり描いてそれがなかなか上手かったため、3年で生母のもとに送り返される。
1865年
兄も省亭を商人とするのを諦め、16歳で柴田是真に弟子入りしようとする。是真は持参した省亭の画を見て、弟子入りするなら菊池容斎の方がいいだろうと、自ら容斎のもとに連れていき入門することになったという。省亭はこの時の恩義を生涯忘れず、終生是真を賞賛し、その絵画世界を追求することになる。容斎の内弟子として入門した省亭であるが、その指導は一風変わっており、かつ極めて厳しかった。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆、または趙孟頫の手本でひたすら習字をさせられた。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。
1869年
来日したエディンバラ公アルフレッド公に贈呈する画帖制作に門弟として参加した後、容斎から破門された(理由は不明)。画家として自立せざるを得なくなったが、これが修行時代だと覚悟を決め、安直に収入の良い仕事にはつかず、浅草観音堂に頼まれもしない絵を描きに通ったという。
1872年
渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐ。表札には、「二代目渡辺良助」と掲げたという。師の元を去って3年余り経った後、容斎から呼び戻される。旧幕臣大久保一翁が東京府知事を拝命した際の依頼品《心の草紙》の冒頭と中盤、終わりを除いた部分を任され、師を慕い続けていた省亭の喜びは大きかった。
1875年
美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職。濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていく。
1877年
第一回内国勧業博覧会で図案や蒔絵の下絵2点、絵画作品《郡鳩浴水盤ノ図》を出品、起立工商会社のために製作した金髹(きんきゅう)図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で《郡鳩浴水盤ノ図》が選ばれて出品が決まり、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣された。これは日本画家としては初めての洋行留学である。メンバーは副社長の若井兼三郎ら7名で、その中には林忠正もいる。なおこの時省亭は、洋装ではなく「法被股引」姿で欧州へ出かけたという。
1881年
第二回勧業博覧会では《過雨秋叢図》で妙技三等賞を受賞。
1883年
アムステルダム万国博覧会で銅賞受賞。
1887年
第二回鑑画会大会に出品した《月夜の杉》で二等褒状。
1893年
シカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなる。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もある。
1918年
脳溢血で倒れ、尿毒症と腎臓炎を併発。日本橋浜町の自宅で亡くなった。

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