買取品目掛軸 日本画
橋本 雅邦
- 1835年
- 江戸木挽町の狩野勝川院邸内に,川越藩御用絵師橋本晴園の子として生まれる。
- 1846年
- 狩野晴川院養信に入門、生涯の友狩野芳崖とは同日の入門であった。まもなく養信が没したため狩野勝川院雅信に師事、芳崖と共に勝川門の二神足と称された。
- 1860年
- 雅邦の号をもらって絵師として独立を許される。
- 1870年
- 木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。妻は発狂し、雅邦は病妻を亡くなるまで世話した。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。
- 1882年
- 第一回内国絵画共進会では、『琴棋書画図』(MOA美術館蔵)が銀印主席を取り、同じく出品した『竹に鳩』(三の丸尚蔵館蔵)が宮内省の御用となっている。
- 1884年
- フェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになった。
- 1889年
- 東京美術学校(東京芸大)教諭。
- 1890年
- 東京美術学校(東京芸大)教授。帝室技芸員となり、内外の博覧会で常に高賞を受賞。
- 1897年
- 東京美術学校騒動に際して同校を辞職。
- 1908年
- 胃癌のため死去した。
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