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石ノ森 章太郎

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1938年
宮城県登米郡石森町(現登米市中田町石森)に、父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。
1950年
中学生になり、近所の子たちを集め、正岡子規の句集に名を借り、マンガ同人誌「墨汁一滴」を作るが、2号であえなく廃刊。翌年(中学2年)、「毎日中学生新聞」の漫画投稿欄に4コマを初投稿、入選。投稿マニアになる。
1954年
高校2年生の春、漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。「漫画少年」新年号からの「二級天使」の連載でデビュー。
1956年
宮城県立佐沼高校卒業と同時に上京。西落合に下宿、漫画家生活に入る。同5月、トキワ荘に移る。同月15日、姉が上京。トキワ荘仲間が中心の「新漫画党」第2次党員(党首・寺田ヒロオ)となる。
1958年
トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。
1959年
手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。藤子、赤塚らと共にトキワ荘に長く住み、国民的売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期まで石ノ森はトキワ荘に住み続けた。
1963年
アニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を鈴木伸一らと設立。
1964年
7月19日より代表作『サイボーグ009』の連載を開始する。
1966年
「ミュータント・サブ」「サイボーグ009」で第7回講談社児童まんが賞受賞。
1968年
「ジュン」「佐武と市捕物控」で第13回小学館漫画賞受賞。
1971年
東映特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当した。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。
1973年
「仮面ライダー」の作詞でコロムビア・ゴールデン・ディスク賞、ゴールデンヒット賞の各賞を受賞。
1981年
日本漫画家協会理事を務める。
1985年
画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎」に改名した。
1998年
東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院でリンパ腫による心不全のため死去、60歳没。

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