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買取品目絵画 版画

吉田 博

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1876年
旧久留米藩士・上田束秀之の次男として、福岡県久留米市に生まれる。
1888年
福岡県立修猷館に入学。
1893年
修猷館を卒業し、京都で洋画家田村宗立に師事。
1894年
三宅克己と知り合いその影響で水彩を描き始め、三宅の勧めで上京して小山正太郎が主催する不同舎に入門し、後に明治美術会の会員となる。
1898年
明治美術会10周年記念展に、『雲叡深秋』、『雲』などを出品。
1899年
中川八郎と共に渡米し、デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開催。
1900年
ボストン美術館で2人展を開催し成功。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴し、パリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けている。米国へ戻り、満谷国四郎、河合新蔵、鹿子木孟郎、丸山晩霞、中川八郎などと、ボストン・アート・クラブで「日本画家水彩画展」を開催。
1902年
前年に解散した明治美術会を引き継ぐ形で、吉田の発案により、満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)を結成。同年、第1回太平洋画会展を開催し、『榛名湖』など13点を出品。
1903年
第2回展では『昨夜の雨』など21点を出品している。後に、太平洋画会は黒田清輝らが創設した白馬会とともに、明治時代の画壇を二分する団体として発展していく。
1903年
2度目の渡米で、ボストンを拠点に展覧会を開催
1904年
セントルイス万博に、『雨後の桜』、『昨夜の雨』など3点を出品し、銅賞碑を受賞。この2度にわたる渡米により、画風の基礎が出来上がり、かつ豊かになった。その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで展覧会を開催し、欧州諸国、及びモロッコ、エジプトを巡歴
1906年
帰国。
1907年
東京勧業博覧会で『紐育ブルックリンの夕景』が2等賞を受賞。第1回文部省美術展覧会(文展)で、『ピラミッドの月夜』、『新月』などを出品、後者が3等賞を受賞し、文部省買い上げとなる。
1908年
第2回文展で『雨後の夕』が2等賞(最高賞)を受賞。
1909年
第3回文展で『千古の雪』が2等賞(最高賞)を連続受賞。
1910年
第4回文展の審査員に任命され、1913年まで務めている。その後は、無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)として毎年文展に出品し、1919年の帝国美術院創立後も、その展覧会である帝国美術院展覧会(帝展)に作品を発表し続けており、1924年以降、数回にわたり帝展の委員や審査員を務めている。早くから風景画を題材とし、特に山岳と建物を好んでモチーフに選んだ。夜の光のもつ情趣を扱った作品も多い。
1920年
新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を開始。
1921年
『牧場の午後』及び『帆船』のシリーズを出版。
1923年
関東大震災により木版画と版木を全て焼失し、三度目の渡米。この時、渡辺木版画舗により制作した木版画7種を持参していくと好評を得た。また、海外では粗悪な浮世絵版画が高額で取引されているのを知り、日本人として恥ずかしく思ったという。こうした経験から、これ以降、温和な画風の木版画の作品が多くなっていった。特大判のもので、数十度摺りとなったものもあった。数多くの富士山を描いた作品を見ると、葛飾北斎から刺激を受けていたと考えられる。ボストンを拠点に、フィラデルフィア、デトロイトなどで展覧会を開催。
1925年
欧州歴訪の後に帰国し、新宿区下落合に吉田版画スタジオを創設、木版画『アメリカ・シリーズ』、『ヨーロッパ・シリーズ』を自ら版元となり出版を開始。
1927年
日本およびハンガリー現代版画展に40点を出品。
1936年
日本山岳画協会を結成。
1937年
第1回文部省美術展覧会(新文展)に『利尻姫沼』を出品し、李王家買上げとなる。戦時中は従軍画家として中国へ赴いている。
1947年
太平洋画会会長に就任し、第3回日本美術展覧会(日展)の審査員をつとめ、『初秋』を出品。
1950年
新宿区の自宅で老衰のため死去。享年74。

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