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中村 不折

1866年
父・源蔵、母・りゅうの子供として江戸の京橋八丁堀(現:中央区湊)に生まれる。
1870年
明治維新の混乱を避け、一家をあげ父の郷里の長野県高遠(現:長野県伊那市)へ帰る。幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとした。
1885年
北原安定に漢籍、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。西高遠学校授業生(代用教員)となる。
1887年
4月に上京し、高橋是清の館に住み込みながら、画塾「不同舎」に入門。小山正太郎に師事し絵を学んだ。西伊那部学校の助教となる。
1888年
飯田小学校で図画・数学の教師となる。担任生徒に後の菱田春草、樋口龍峡がいた[1]。夏期休暇を利用して河野次郎に洋画の初歩を学ぶ。
1891年
第2回明治美術会展覧会に水彩画3点を出品。油彩画を始め、現存する最初の作例「自画像」を制作。
1894年
28歳の時、第5回明治美術会展覧会に「憐れむべし自宅の写生」ほかを出品した。正岡子規に出会い、日本新聞社の発行する新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用する。
1896年
正岡子規とともに日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持つ。
1897年
堀場いとと結婚。日本新聞社に入社し引き続き挿絵を担当する。
1900年
第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」を出品。「紅葉村」は1900年のパリ万国博覧会で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室を新築し転居した。
1901年
6月にはフランスへ渡りラファエル・コランに師事する。島崎藤村が刊行した『落梅集』の挿絵を担当。
1903年
アカデミー・ジュリアンに転じ、ジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受ける。
1905年
ジュリアン画塾のコンクールに入賞。また沼田一雅、岡精一とともにムードンへ赴き、オーギュスト・ロダンを訪問して署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見た。
1905年
帰国後は、明治美術会の後身である太平洋画会に所属し、主に歴史画の分野で活躍して東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。
1907年
1907年の時期の作品である「建国剏業」は東京府主催の「勧業博覧会」に出品され第1等を受賞したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣であった九鬼隆一は「不敬である」と激怒した。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。
1909年
その後、日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時『龍眠帖』を刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。
1913年
河東碧梧桐らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。
1915年
東京大正博覧会に「廓然無聖」他を出品。「永寿二年三月瓶」を入手。
1916年
下谷区上根岸125番地(現・台東区根岸2丁目)に転居する。『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。
1917年
『不折山人丙辰溌墨』第1集・第2集を刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」を出品。
1930年
太平洋美術学校が開校し初代校長に就任した。
1933年
晩年は、自ら長年にわたり収集した書道資料のコレクションを保存展示すべく「書道博物館」の創設に尽力し、67歳の時に博物館創設に着手する。
1936年
帝国美術院が改組しその会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。1936年(昭和11年)に書道博物館が開館し、同年11月3日に開館式が行われた。
1937年
帝国芸術院に入会。
1943年
脳溢血のため下谷区の自宅にて急死。享年78歳。

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