豊後では古美術 蒔絵を高価買取しています。
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高価買取のポイント
近年では、渋さよりも華やかな物が好まれる傾向にあり、黒地よりも梨地と呼ばれる全体的に金粉をまぶした下地の明るい物が人気で、その梨地の上に更に金蒔絵が施されている品は高額査定が見込めます。
貝をはめ込んだ螺鈿細工や珊瑚、銀粒などを象嵌した物はとても煌びやかに見える為、特に海外の方に人気が高く、価格が高騰しています。
繊細な蒔絵の品は 昔から大切に扱われていた為、価値の高い物になると箱に入って保管されています。箱のあるなしでその品がどれだけ大事に伝世された来た物かが判断できるので、査定ポイントの一つとなっています。
蒔絵の商品は、棗、香合、印籠、硯箱、文机、吸物椀、重箱、小箱、飾棚等、様々な種類があり、決して大きさだけで値段が決まるのではありません。作者や技法の違い、説明書や大名家の売り立て目録等の付属品の有無で査定額が大きく変わってきます。
漆器の素地は殆どが木材で出来ており、高温多湿による割れや、鼠などにかじられていると修理が困難な為マイナス査定になりますので、保管場所にはくれぐれもご注意下さい。
日本が世界に誇る芸術品の一つである蒔絵の商品は、益々注目され、需要が高まっていくと考えられています。蒔絵製品は、古い物から現代の物まであり、器形も多種多様です。
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よくあるご質問
- 古い蒔絵の飾り棚などの大きな物でも買取して頂けますか?
蒔絵の製品は、大きさに関わらず買取しております。江戸期、明治期、現代物なのか、造られた時代を判別し査定させて頂きます。最近では、金をたくさん使った派手な物が人気で、高額査定が期待できます。
- 倉庫から漆器が出てきました。 吸物椀やお膳、弁当箱など古い木箱に入ったままの状態です。 ずっと使っていなかったのですが査定してもらえますか?
漆器は繊細な商品ですので、擦り傷、禿げ、熱湯による変色などをチェックさせて頂きます。図柄や、製法によっては、高値が付く場合も十分ございますので、古そうでも処分されずに是非お見せ下さい。
古美術 蒔絵の買取について
蒔絵について
蒔絵は、日本独自に発達した漆芸の代表的な技法です。漆器の表面に漆で文様や画を描き、それが乾かない内に金や銀の粉を蒔く事で、絵や文様に色彩を与え、漆黒の地をきらびやかに飾ります。その美しさから、日本だけではなく海外でも高い人気を得ています。
蒔絵の技法は、研出蒔絵、平蒔絵、高蒔絵の3種類に大きく分類され、研出蒔絵と高蒔絵を同時並行で制作する肉合蒔絵、卵殻蒔絵など様々な技法があります。また、粉の種類によって、消粉蒔絵、平極蒔絵、丸粉蒔絵とも区別されます。
他にも、文様以外の地に粉を蒔く塵地、梨地、平目地などの技法や、螺鈿、彩漆、象眼、平文なども併用されており、複雑な装飾文様が作られています。
蒔絵取り扱い品目
硯箱・文箱・文机・料紙箱・印籠・野弁当・重箱・花台・箪笥・鼓・鐙・鞍・刀剣外装・棗・香合・水指・茶箱・煙草盆・食籠・屠蘇器・吸物椀・盃・花器・茶托・銘々皿・菓子器・盆など
主な技法
研出蒔絵(とぎだしまきえ)
金粉や銀粉を蒔いた後に、器面全体に漆を塗りかぶせ、乾燥後に木炭で漆を研磨して下の蒔絵層を出す技法。研磨した後には、器の表面は平滑になる。
正倉院宝物の金銀鈿荘唐大刀に見られる「末金鏤作」も研出蒔絵の技法工程に近いとされている。金銀粉の精製技術が未発達で、粉の粒子が荒かった平安時代までは、この技法が蒔絵の主流であった。
平蒔絵(ひらまきえ)
漆で文様を描き、金銀粉を蒔いた後に、文様の部分だけに摺り漆をして研磨したもの。器面全体を漆で塗り込めない点が研出蒔絵と異なる。
この技法は平安時代後期から現われ、桃山時代の高台寺蒔絵などは平蒔絵が主たる技法となっている。
高蒔絵(たかまきえ)
文様部分の漆を盛り上げて浮き彫り状に表現したもの。
肉合蒔絵(ししあいまきえ)
高蒔絵と研出蒔絵を合わせた技法。
文様の一部を浮き彫り状に盛り上げた上で、器面全体に漆を塗りかぶせ、木炭で研ぎ出す。研出蒔絵と異なり、研磨後、器の表面は平滑にならない。
卵殻蒔絵(らんかくまきえ)
色漆の中でも白色の漆は、蒔絵の中でも研出蒔絵等で使う場合、乾燥硬度が伴う白さが出せる色漆が現在でも困難で、白色の蒔絵の表現には、代わりとして卵殻の白色を用いる。
卵殻(卵のカラ)を割り螺鈿の様に漆面に貼り、金銀粉と共に蒔絵に使う。模様に主として卵殻を多く使う蒔絵を卵殻蒔絵という。
卵には、薄く繊細な表現に向いているためウズラの卵の殻をよく使用する。
スクリーン蒔絵(すくりーんまきえ)
大量生産が行われるようになり、従来の手書き蒔絵にかわる近代技法として登場した。シルクスクリーン技術を用いることにより、同じ柄を大量に短時間で描くことが可能となったが、金属粉を「蒔く」工程は今でも職人の手作業で行われる。
漆の代わりにウレタン塗料などが用いられることも多く、使用する金属粉も伝統蒔絵で用いられるものとは異なる場合がある。
沈金(ちんきん)
漆の塗面に沈金刀というノミで文様を刻み、漆を擦り込んで金粉や金箔などを入れる技法。
蒟醬(きんま)
漆の塗面にキンマ独特の刃物で文様を彫り、漆と色粉を練った色漆で彫った文様に充填し、砥ぎつけ磨く技法。
流派
幸阿弥派
幸阿弥派(こうあみは)または幸阿弥家(こうあみけ)は、漆芸における蒔絵師の流派で代々将軍家に仕えた。
五十嵐派
五十嵐派(いがらしは)は、漆芸の蒔絵師の流派。幸阿弥派と並ぶ、御用蒔絵の二大流派。
五十嵐道甫が、加賀前田家の招きで金沢に渡り、加賀蒔絵の基礎を築いた。
古満派
羊遊斎派
石切可岸派
薬研堀派
川之辺派
植松派
赤塚派
有名蒔絵師
飯塚桃葉(いいづか とうよう)
生没年不詳。江戸中期の印籠蒔絵師。通称源六、観松斎と号す。
蜂須賀重喜に召しかかえられ、江戸に住んだ。豪華な蒔絵のほか、墨絵を思わせる研切蒔絵なども制作。
代表作は「宇治川蛍蒔絵料紙硯箱」。子孫も業を継ぎ、観松斎の号を踏襲。
五十嵐道甫(いがらし どうほ)初代
[?~1678]江戸時代前期の蒔絵師。五十嵐甫斎の子。五十嵐信斎の子孫という。
京都に住み、寛永年間[1624~44]に加賀金沢藩主前田利常にまねかれ、加賀蒔絵の基礎を築く。
利常隠居後、京都にもどった。延宝6年5月26日死去。名は忠三郎。
代表作に「秋野蒔絵硯箱」。
池田泰真(いけだ たいしん)
[1825~1903]幕末・明治時代の蒔絵師。文政8年7月7日生まれ。
11歳から柴田是真のもとで修業し、安政6年(1859)独立。門人の養成に尽力。住居の地名から薬研堀(やげんぼり)派と称された。
明治26年のシカゴ万国博に「江之島蒔絵額」を出品した。
29年帝室技芸員。明治36年3月7日死去。79歳。江戸出身。
一后一兆(いちご いっちょう)
[1898~1991]一后一兆は、石川県に生まれ、輪島塗の名人であり最高峰の蒔絵師として評価されている。
その素性はあまり知られおらず、また市場に出回る作品も少なく、現在でも茶道具は高値で取引されている。特に棗は評価が高い。
蒔絵の世界に憧れて修行を重ね、日展などに数多く入選している。
独特の色彩感覚と他の絵師には無い大胆さ、構図力を持ち日本最高峰の蒔絵師と称されている。
特に棗に秀作を多く残しており、千家宗匠の書付認定塗師として高い評価を受けている。
尾形光琳(おがた こうりん)
[1658~1716]江戸中期の画家・工芸意匠家。京都の人。名は惟富、通称、市之丞。乾山の兄。
初め狩野派を学び、のち光悦や宗達の作風の影響を受け、大胆で軽妙な画風により独自の造形美を展開、琳派を確立した。
代表作に「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」など。蒔絵にも優れた作品を残した。
小川松民(おがわ しょうみん)
[1847~1891]明治時代の漆芸家。金具師小川忠蔵の子。 16歳のとき中山胡民に師事して蒔絵を学んだ。その後、古典蒔絵の研究を重ね模造した。特に明治の復古国粋主義の美術批評家たちの感化を受け、歌絵模様の蒔絵を好んで制作。
東京美術学校教授として工芸家の育成に努めた。
主要作品「熨斗若松蒔絵盆」(東京芸術大学)、「布引滝蒔絵硯箱」(東京国立博物館) 。
小川破笠(おがわ はりつ)
[1663~1747]江戸中期の蒔絵師。伊勢の人。通称平助。笠翁、卯観子、夢中庵などと号した。
江戸に移り、俳諧や土佐派の絵画もよくした。蒔絵に鉛・貝・陶片・牙角・堆朱などをはめ込む破笠細工を創始。
作品に「柏に木菟(みみずく)図料紙硯箱」など。門人の望月半山(宝暦ごろ)が2世破笠を名乗った。
梶川彦兵衛(かじかわ ひこべえ)
生没年不詳。江戸初期の蒔絵師。寛永年間に幕府に仕え、蒔絵の名手といわれ、特に印籠蒔絵にすぐれた。
門人の久次郎が梶川家の跡を継ぎ、寛文年間幕府に仕え、江戸中橋に住んだ。
子孫代々業を継ぎ、梶川蒔絵と呼ばれた。
川之辺一朝(かわのべ いっちょう)
[1830~1910]室町時代からなる漆芸蒔絵の幸阿弥派を受け継ぐ最後の漆工。
幕末~明治後期にかけて活躍、幕末時は将軍家の婚礼、祭事などの際に蒔絵調度品を製作。
明治維新後は宮内省の御用を務め、ウイーン万国博をはじめ内外の博覧会などに出品。
東京美術学校より招聘を受け白山松哉の代行教諭として後進の指導に尽力。
1896年に蒔絵技法で帝室技芸員を拝命する。
川端近左(かわばた きんさ)初代
初代川端近左は名を佐兵衛といいました。川端家は滋賀県の出身で油商「近江屋」を営んでいました。
幕末の頃に京都に移り住んで但馬豊岡藩備前岡山藩などの御用油商を営んでおりました。家業の傍ら俳句や日本画など嗜む趣味人であったと言われています。
そのなかでも特に漆芸を好み、次第に家業になっていきました。
ちなみに「近左」とは、屋号の近江屋と、名前の佐兵衛からつけられたとい言われています。
初代近左の長男は、日本画家の川端玉章。(円山派の画家です。岡倉天心によって東京美術学校の教師として迎え入れられ、後に川端画学校を設立します。)
幸阿弥道長(こうあみ みちなが)
[1410~1478]室町後期から江戸時代を通じて、時の為政者に仕え、常に主流的な位置にあった蒔絵師の家系。
初代道長は、本名土岐四郎左衛門道長といい、近江国栗本郡を領した足利義政の近習であった。のち蒔絵を習って上手になり蒔絵師として将軍家に仕え、入道して幸阿弥と称した。
能阿弥、相阿弥、土佐光信の下絵を用い、高蒔絵や研出蒔絵の精巧な作品を制作した。
2代道清[1433~1500]は、道長の長子。1465年(寛正6)に義政の命で後土御門天皇即位の調度に蒔絵を施し、法橋に叙された。
古満寛哉(こま かんさい)
[1767~1835]江戸後期の蒔絵師。本名は坂内重兵衛。
古満巨柳の門人となって頭角を現し、古満の姓を許される。晩年には坦叟あるいは坦哉と号したという。
現在、寛哉作を称する作品は多いが、いずれも確証はなく、その作風は明らかではない。ただ、古満派の蒔絵師の例にもれず、印籠を中心に制作を行っていたことは確かで、「寛哉」銘の印籠が巷間に数多く伝えられている。
代表作は、竹塗に蝉を蒔絵した「竹蝉蒔絵印籠」(東京国立博物館蔵)など。なお、明治漆工界の大御所として知られる柴田是真は、この寛哉の弟子筋に当たる。
小島漆壺斎(こじま しっこさい)
[1761~1816]初代漆壺斎は不昧公に随行し江戸大崎屋敷に入り、原羊遊斎に蒔絵を学びます。
狩野伊川院栄信下絵の月に秋草図棗の制作をきっかけに不昧公より漆壺斎の号を賜ることになります。
不昧公好みの茶の湯道具をはじめ数々の格調高い優品を残します。
柴田是真(しばた ぜしん)
[1807~1891]幕末・明治の日本画家・蒔絵師。東京生。幼名は亀太郎、のち順蔵、別号に令哉・古満等。
古満寛哉(こまかんさい)に蒔絵を、鈴木南嶺・岡本豊彦に四条派を学び、絵画・蒔絵・漆絵に才を発揮する。
古来とだえていた蒔絵の技法・青海波塗を復活させ、内外の展覧会で受賞した他、宮中の御用も度々つとめ、明治御殿襖絵や新宮殿杉戸絵などを描いた。頼山陽・香川景樹ら諸名家とも親交した。
帝室技芸員。明治24年(1891)歿、85才。
白山松哉(しらやま しょうさい)
[1853~1923]明治・大正期の漆芸家。江戸に生まれ、本姓は細野、名は福松。
蒔絵を小林好山(万次郎)に、彫漆、螺鈿を蒲生盛和に学び、青年期に起立工商会社で蒔絵製作にたずさわる。
1905年東京美術学校教授、06年帝室技術員となる。
作風は繊細を極め、とくに研出蒔絵の精緻な技術は他に比類がない。
小品が多く,主なものに「梅蒔絵硯箱」、「鳥蒔絵螺鈿八角形菓子器」(以上東京国立 博物館)、「蝶牡丹蒔絵沈箱」(MOA美術館)などがある。
中村宗哲(なかむら そうてつ)初代
[1617~1695]江戸時代に始まる代々の塗師。初世は、名を玄弼といい、京都の人。点茶を好み、藤村庸軒との交わりを通じて千家の塗師となった。
中山胡民(なかやま こみん)
[1808~1870]幕末の蒔絵師。武蔵国葛飾郡(東京都)寺島村の名主金兵衛の3男。通称は祐吉。
原羊遊斎に入門して蒔絵を学び、精巧精緻な技巧で知られた。のちに法橋に叙せられ、泉々と号す。江戸両国矢の倉に住み、のちに今戸に移る。
嘉永・安政年間(1848~60)の自筆注文控「塗蒔絵控」「蒔絵註文控」によれば、櫛、硯箱、手箱、茶道具類を多く制作した。
門人に小川松民がいる。
勝軍木庵光英(ぬるであん みつひで)
[1802~1871]九代藩主松平斉斎公の時代、江戸の蒔絵師梶川清川に従事し技法を学びました。斉斎公より勝軍木庵の号を賜ります。
作品は、茶道具や印籠、文台硯などで、作風は梶川系の緻密な高蒔絵や研出蒔絵となっています。
原羊遊斎(はら ようゆうさい)
[1769~1846]江戸時代後期の蒔絵師。江戸出身。通称は久米次郎。別号に更山。
明和6年生まれ。江戸神田に住み、琳派風の装飾的な意匠と精細な表現で名工と称せられた。酒井抱一が下絵を描いたとされるものも含めて数多く巷間に伝わっており、いずれも「羊」「羊遊斎」「羊遊斎作」などの銘が記されている。
門弟に中山胡民がいる。弘化(こうか)2年12月25日死去。77歳。
山本利兵衛(やまもと りへえ)初代
[1688~1766]江戸時代の漆工。初世は、本名武次。丹波の人で、宝永のころ京都に上り、吉文字屋某に漆工芸を学んだ。1746年桃園天皇即位に際し漆器を製作。
3世[1770~1838]は本名光春。父に蒔絵を、吉野元陳に狩野派の絵を学んだ。1817年仁孝天皇即位の調度に蒔絵を施し、また宮中の屏風に山水を描いたこともある。