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高価買取のポイント
文房四宝とは、筆・墨・紙・硯の事を言います。
筆は様々な素材で出来ており、それによって査定額も大きく変わってきます。
特に高い物は中国時代の堆朱になり、王者格とされています。磁器製の染付や五彩の物もよく見られ、明、清時代の年号入りになると高額査定が期待できます。
これは中国明時代に作られた蒔絵にも同じ事が言えます。玉を大切にする中国では、翡翠や白玉で作られた筆も珍重されており、高値で取引されています。
竹の模様が独特な斑竹、細かく山水模様などが彫られた象牙や古竹の筆なども昔から変わらぬ人気を誇っています。
墨については、和墨と唐墨に大別されるのですが、やはり唐墨が高値を期待できます。
中国における墨作りの全盛は、明の万暦時代であり、程君房、方于魯などの銘の入った物が特に人気です。清時代の乾隆御墨も有名です。
硯は中国の端渓硯が人気で、側面や、底面に当時の所有者や権力者などの詩文や銘が彫られているか、模様や眼などの見所が多いか、時代の古い唐木のケースに収められているかなどで査定アップに繋がります。
稀に名硯図録の書載物の硯も見られますが、立派な外箱に著名人による作品の題名や署名が書かれています。ここまでくると、日本に何面かしか存在しない名硯の可能性があり、驚くような査定額が期待できます。
他の書道具として、印材や筆筒、筆架、腕枕、水滴、硯屏など、素晴らしい道具が沢山あります。
印材にも様々な種類があり、白玉や田黄といった高価な素材の物や、有名な篆刻家によって彫られた物は、高額査定が期待できます。
筆筒や腕枕で特に人気の高い物は、中国の古竹で作られた物で、年号や作者銘が入っていると数百万円するものも存在します。ただし竹製品はコピーが作りやすい為、贋物がほとんどだと思ってもいいでしょう。
筆架や水滴は李朝の物、硯屏は中国時代の龍泉窯の青磁で作られた物が人気で高額査定が期待できます。
文房四宝は小さい物が多く、他の美術品と比べると高そうに見えないのですが、遥か昔から時の権力者や文人、政治家などに愛玩された物が多く、考えられない査定額が付く事が実は多いのです。
硯箱や机の引き出しの中に雑に保管されている事も多々ありますので、気になるお品物がございましたらお気軽にご相談ください。
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よくあるご質問
- 書道の本がたくさんあるのですが、買取可能でしょうか?
書道の本には、色々な種類があり価値の付かない本もあります。価値ある物はしっかり選別して査定致しますので是非ご相談下さい。
- 祖父が書道を習っていたようで、使いかけの墨や印鑑の様な物がたくさん出て来ました。 買取は可能でしょうか?
文房具類のお道具は、中国人バイヤー達からも人気で年々高くなっています。古い墨は、昔の製法で造られた物の方が買取価格は高くなりますので、捨てずにお見せ下さい。その他、硯、筆、印材なども弊社の買取強化品となっておりますので、是非お見せ下さい。
古美術 文房四宝の買取について
文房四宝について
中国では古来、文人の書斎を文房とよび、教養を満たす室として尊重しましたが、やがて文房はそこで用いる道具類をさすようになりました。
そのうち特に大切な筆,硯,紙,墨を文房四宝と呼びます。
この四つの文房具の中でも特に硯が重んじられ、多くの文人に愛でられる対象となりました。使用しても消耗することがなく、骨董価値が高かったためです。
次に墨・紙という順で、筆は新しくないと実用的でないので骨董的な価値に乏しく、愛玩の対象とはあまりなりませんでした。
硯は端渓硯が最も有名ですが、歙州硯も同じくらい賞玩され、墨も歙州に名工と評される李超・李廷珪父子が名を馳せ、張谷もこの地に移ってきました。
紙についても、歙州にて澄心堂紙という極めて良質の紙が産出されました。
宋初には硯・墨・紙について、歙州は代表的な生産地となっていました。
これは南唐の国王である李中主・後主の親子2代にわたる工芸優遇政策によるところが大きく、工人に官位を与え俸禄を優遇したため、優秀な人材が集まり、技術が高度化して、優れた製品を継続的に生産できるようになったのです。
南唐期の文房四宝は歴代皇帝に珍重され、復元が試みられました。また、葉夢得・唐詢・欧陽脩・蘇軾・米芾・蔡襄など著名な文人、書家も重用しました。
硯
硯の種類
硯には大別して唐硯(中国産)と和硯(国産)がある。
唐硯、和硯ともに産地、材質、形式、彫刻の模様などにより様々な種類の硯がある。
中でも端渓硯(たんけいけん)、歙州硯(きゅうしゅうけん)、洮河緑石硯(とうがろくせきけん)、澄泥硯(ちょうでいけん)が有名で中国の良硯の四宝といわれる。
他にも松花江緑石硯、紅糸石硯、陶硯などが存在し、品質、価格とも様々だが上級品は墨の降り・発墨に優れており、高価に取引されるものもある。
代表的な和硯
日本の硯の材料産地は、山口県宇部市の赤間石、宮城県石巻市の雄勝石、三重県熊野市の那智黒石、山梨県早川町雨畑の玄晶石(粘板岩)等である。
その中でも赤間石と雄勝石の二つは百年以上の歴史があり、国の伝統工芸品指定を受けている。
代表的な唐硯
端渓硯
中国広東省広州の西方100kmほどのところに、肇慶という町がある。
この町は西江という河に臨んでいて、東に斧柯山(ふかざん)がそびえる。この岩山の間を曲がりくねって流れ、西江に注ぐ谷川を端渓(たんけい)という。
深山幽谷と形容される美しいこの場所で端渓硯の原石が掘り出される。
端渓の石が硯に使われるようになったのは唐代からで、宋代に量産されるようになって一躍有名になった。
紫色を基調にした美しい石で、石の中の淡緑色の斑点など丸みを帯び中に芯円を持つものを「眼」(がん)という。
実用には関係ないものだが大変珍重される。
端渓の石は細かい彫刻にも向き、様々な意匠の彫刻を施した硯が多く見られる。
端渓硯の価値の第一は≪磨墨液が持つ撥墨の範囲の広さ・佳さ≫である。
第二、第三と続く価値は硯としての本質に直接関係しないが、その視覚的美しさであり、「眼」等々の石紋の現れ方、そして彫刻の精巧さ、色合い、模様などによる。
端渓硯には採掘される坑によって以下のようなランクがある。
- 老坑:最高級の硯材。ここの一定の範囲から産出する硯材のみを「水巌」と称するこ事が主である。
- 坑仔巌:老坑に次ぐとされている。
- 麻仔坑:かつては老坑に匹敵するという評価もされた。
- 宋坑:宋代に開発開始。比較的安価。
- 梅花坑:色合いに趣はあるが硯材としては下級とされている。
- 緑石坑:現代物はあまり良質ではない。
歙州硯
端渓硯と並び称される名硯に歙州硯がある。
この硯の原石は南京の南200kmの歙県から掘り出される。
付近には観光地として知られる黄山があり、この辺りは奇怪な岩石の峰が無数に林立する山岳地帯である。
歙県はその黄山の南に位置し、昔は歙州(きゅうしゅう)と言った。
歙州硯は端渓の女性的な艶やかさに比べ蒼みを帯びた黒色で、男性的な重厚さと抜群の質を持つ。
比重は重く石質は硬く、たたくと端渓よりも金属的な高い音がする。
へき開のために細かい彫刻には向かない。
磨り味は端渓の滑らかさと違って、鋭く豪快に実によくおり、墨色も真っ黒になる。
この硯は、うす絹を2枚重ねた時にあらわれる波のような模様、「羅紋」(らもん)が特徴である。
採石期間が短かったため現存する歙州硯は極めて少なく、端渓硯に比し約5%程度と思われる。
洮河緑石硯
北宋中期の洮河(現在の甘粛省チョネ県)の深底から採石された。
端渓硯を超える名硯とされるが、河の氾濫により採石場所が不明となったため、短期間で途絶えた。
現存するものは極めて貴重であり、入手はほぼ不可能である。
現在販売されている端渓緑石、新洮河緑石などは全くの別物。
澄泥硯
澄泥硯については石を原料としたとする自然石説と、泥を焼成したとする焼成硯説が存在する。
清代初期頃まで作られていたとする焼成硯については、「当時の技術では焼成澄泥硯を作るための高温を出せる窯は作れなかった」として疑問が呈される場合もある。当時の製法ではこの高温が不可能であったため、焼成澄泥硯の製法書とするものにはあたかも魔術のような荒唐無稽な製造方法が述べられている。このように製法については現代でも解明されていない部分がある。
うるおいを含んだ素朴さを感じさせる硯で石硯の比ではないといわれている。
澄泥硯の最上のものは鱔魚黄澄泥(せんぎょこうちょうでい、ベージュ・くすんだ黄色)で、その次は緑豆砂澄泥(りょくとうしゃちょうでい、緑色・黒または青まじり)である。
それぞれに硯としての品質差があり、この品質差は見る者の感覚により変化する。
松花江緑石硯
吉林省松花江上流域で採掘される。
緑、黄色系の縞状の模様が特徴。
清朝期に名品が多い。
これは清朝が満州族によって建国されたため、父祖の地に近いところに良い硯石の産地はないかと調べた結果、吉林省で発見されたことに由来する。
紅糸石硯
山東省青州の黒山にて発見された。
黄褐色に紅色の糸状の模様が特徴。
宋代頃に良質の原石が枯渇したため衰退し、現存するものは少ない。
現在この名称で安価に販売されているものは「土瑪瑙石」という偽物の可能性がある。
陶硯
硯のうち、陶磁器で作られたもの。
磁器のものは磁硯と称する。
制作の歴史は古く、出土品などからも発見される。
実用面では石硯に及ばないが、彩色、形状に趣があるものも多いため、観賞用として飾られることもある。
洗硯
本来、「洗硯」という言葉自体は文字通り、硯を洗い清めることであるが、硯の場合、水中に浸すと石の紋様などが分かりやすいため、その鑑賞行為を特に「洗硯」と称し、愛好家などが行う硯の鑑賞会を「洗硯会」と呼ぶ。
実際の洗硯会においても清水を張った水盆などに硯を浸して鑑賞する。
墨
中国産のものは唐墨、日本産のものは和墨と呼ばれ、その製法や性質も多少異なる。
古来、煤を焚く材料にはアカマツやその松脂、または菜種油やごま油といった植物油が用いられ、その種類により「松煙墨」と「油煙墨」に区別される。
墨の種類
固形墨は主な原料である煤の違いによって、松煙墨と油煙墨に分かれる。
朱墨、青墨、紫墨、茶墨などの表現があるが、朱墨以外は基本的に黒色で、色調の傾向を示す言葉である。
朱墨の原料は、鉱産物として天然に採掘される辰砂である。
松煙墨(青墨)
松煙は燃焼温度にむらがあり、粒子の大きさが均一でないことから、重厚な黒味から青灰 色に至るまで墨色に幅がある。
青みがかった色のものは青墨(せいぼく)と呼ばれる。
製法は、松の木片を燃焼させて煤を採取する。
青墨には煤自体が青く発色するもの以外に、藍などで着色するものもある。雨風に弱い。
油煙墨
油煙は、煤の粒子が細かく均一で、黒色に光沢と深味がある。
製法は土器に油を入れて灯芯をともし、土器の蓋についた煤を集めて作る。
植物油では菜種油が最適とされるが、他にゴマ油や大豆油、ツバキ、キリなどがある。
鉱物油は重油や軽油、灯油である。
雨風に強い。
古墨
文房四宝における墨の中で、製造されてから長い年月を経ているものをいい、品質の良い墨とされている。
通常、唐墨は清時代までに、和墨は江戸時代までにつくられたものを古墨と称す。
諸説あるが、墨は出来たてでは粘り気があり、墨色も冴えないという。
だいたいの目安としては、20年から100年にかけてが最もよい墨色を見せる。
また、古墨の条件としては、よい原料とよい製法を用いていることが前提である。よって、いくら年月を経ても、原料が粗悪なものであったり、製法に手抜きがあれば、古墨とは呼べない。
明清時代が製墨の頂点といわれ、以後、カーボンブラックが使用されるなど品質の悪化をたどった。
特に1966年の文化大革命の後、品質が変化したといわれ、また、文革によって新しい名前の墨ができ、古いなじみの墨が少なくなった。
主な特長
- 墨色が美しい。
- 筆が暢びて書き良い。
- 筆の通過した跡と滲み(淡い色)との差が、乾くと明瞭になる。
古墨の例
- 乾隆御墨(文遡閣詩)
- 乾隆御墨(彩墨)
- 敬勝斉蔵墨
- 胡開文
- 龍鳳呈祥(程君房製)
- 百子図(程君房製)
歴史
唐代の墨匠では李超と李廷珪の親子が有名であり、宋の『淳化閣帖』は廷珪の墨で拓したといわれる。
明代には、程君房(ていくんぼう)、方于魯(ほううろ)などの名匠が出て、形式も現代のようになり、品質も非常に優れた墨が作られ、造墨の最頂点といわれる。
よって、この時代の古墨は特に珍重される。
清代は乾隆帝が墨匠・汪近聖(おうきんせい)に作らせ、また、曹素功(そうそこう)・胡開文(こかいぶん)の両家も名墨(乾隆御墨(けんりゅうぎょぼく)など)を競い合った時代である。
李廷珪
10世紀前半の中国南唐の製墨家。
五代十国南唐の後主李煜に重用された廷珪の墨は「李墨(りぼく)」と呼ばれ、卓越した品質で中国史上最高の墨と評されている。
程君房
嘉靖・隆慶頃の墨匠。
程君房は名を大約、字を幼博、または雅友とも言い、君一房も字であるが、墨業はこの方で通ってしまった。
号に篠野、独醒客、玄々子などがあり、滋蘭堂の斎号もある。
彼の墨業は「程氏墨苑』に図譜が残されていて五一九種を教えるが、これは彼の自信作のみで他に多くの雑墨も作ったと思われる。
詩文にも秀れ、著に『程幼博集』がある。
方于魯
嘉靖・隆慶頃の墨匠。
于魯は字である。初名は大ごう、後に建元と改めた。
貧窮を程君房に救われ、程君房の下で墨業に従事した。
詩文に志し、汪道昆の詩社、豊于社に学んだ。
程君房の第二夫人と恋愛関係に陥り、このもつれもからんで独立する。
自作墨譜『方氏墨譜』がある。
汪近聖
清代の4大製墨名家。
安徽省績渓県出身の清の乾隆時代に活躍した墨匠。
汪近聖は明墨とは異なった味わいを持った作品を製作しており、当時の文人たちから高い評価を得ていた事で知られている。
安徽省は良質の水・松・膠・漆が採取でき、墨を作るためには適した条件が揃っており、ここで作られた墨は高い品質であった事から、他の墨と区別するために「徽墨(きぼく)」と呼び分けがされていた。
汪近聖は曹素功の藝粟斎で製墨を学び、徽州府城内で独立して鑑古斎と称すようになる。
その後、乾隆帝の命を受けた汪近聖は高齢であった事から、次男である汪惟高(兆瑞)を北京に上らせ、3年間の御墨製作にあたらせた。
これは乾隆帝の文墨趣味の一環として製作された精巧な墨で「乾隆御墨」と呼ばれている。
汪節庵
清代の4大製墨名家
汪節庵は名を宣礼,字を蓉坞といい、徽州岩寺鎮(岩寺行信)の出身である。
後に歙県城内で「函璞斎」を創始し、乾隆中期にかけて一世を風靡し、汪近聖と名声を二分している。
徽派木彫の粋を凝らしたような精緻な意匠の集錦墨を得意とする一方、嘉慶年間には文人士大夫階層の特注墨を数多く手がけ、簡素で力強い銘墨を残している。
道光年間にはいって経営が行き詰まり、胡愛堂に接収されて幕を閉じた。活動期間が曹素功や汪近聖に比べて短く、資料も少ないため、その名声の割りに謎の多い墨匠である。
曹素功
清代の4大製墨名家の筆頭
曹素功芸粟斎の創業者は、本名を「聖臣」、字を「昌言」とした。
店名ともなる「素功」は彼の号。
彼は若き頃より墨を愛すること篤く、特に明墨で名高い程君房の製品をこよなく愛玩していた。
明から清へと王朝が変わる中で、明末の名工として知られた呉叔大が閉鎖される際、それを譲り受けて継承する形で、曹素功は創業された。
初代をはじめ歴代の曹素功の主人は、外見上の豪華な墨よりも、実用に即し質的に優れた墨を作ることに意を用いてきた。
その結果、当時の文人たちから高く評価され、宮中へ献上する貢墨などの高級墨の多くを手がけることとなった。
1960年に入り、文化大革命が起こると、企業の合併統合が行われ、上海では曹素功を中心にして上海近郊の胡開文の分店も合併統合されて「上海墨廠」となった。
胡開文
清代の4大製墨名家
徽州績渓の人、胡天柱(1742—1808)が清の乾隆30年(1765年)に創業した墨店が「胡開文」。
1960年に入り、文化大革命が起こると、企業の合併統合が行われ、徽州の墨店は胡開文を中心に「歙県徽墨廠」として統合された。
製煙法の変遷
明代までの墨は松煙墨が普及し、油煙墨は特殊な存在であった。
清代になって状況が逆転し、油煙墨が常識になり、松煙墨が特殊になったが、このころまでの製煙法は原始的であり、それゆえ原料(煤)の品質は非常に良いものであった。
しかし、その後、重油、灯油等の鉱物性の煙が使用されるようになり、品質は格段に下がった。
さらに、鉱物性煙はもちろんだが、松煙や油煙の植物性煙の製煙も機械化され、墨色が単調になり、光沢の品位も下がった。
筆
軸(柄)の部分(筆管)を手に持ち、毛の部分(穂)に墨や顔料をつけ、紙などの書く対象にその毛をなすり付けることによって、字を書いたり絵を描いたりすることができる。
穂の長さにより長鋒・中鋒・短鋒に分けられる。また、穂の大きさにより大筆・小筆という分類もある。
長鋒
筆鋒の長さが軸の外径の2倍以上。
長鋒は行書、草書、仮名などのやわらかい字に適している。
中鋒
長鋒と短鋒の中間の長さ。
楷書や行書に適している。
短鋒
筆鋒の長さが軸の外径より短い。
楷書や隷書など硬い字を書くのに適している。
筆の毛の種類により硬い毛を剛毫、 やわらかい毛を柔毫、硬い毛とやわらかい毛を何種類か混ぜたものを兼毫という。
中国では長い間、弾力の強い兎毛が好んで用いられましたが、明代以降盛んに羊毛が使われるようになった。清代には多くの書家が羊毛筆を好んで使っていた。
日本では、主に狸・鹿・兎・馬毛等が用いられてきたが、明治以降羊毛筆の需要が次第に高まり、筆全体に占める割合が増加していった。
剛毫
剛毫にはイタチ、馬、狸などの毛。
芯のある力強い線を書くのに適している。
柔毫
柔毫は羊、猫などの毛。
しなやかで流れのある文字表現に適しかな文字を書く場合などに用いられる。
兼毫
剛毛と柔毛を混ぜた毛。
書きやすく初心者の方におすすめ。
筆管の材質
斑竹・白玉・翡翠・彩色漆・堆朱・堆黒・陶磁器製と様々な種類がある。
紙
紀元前三世紀、エジプトのハピルス紙が歴史上最古の紙として有名ですが、これは植物繊維をそのまま縦横に重ねただけのもので、紙の原形というべきもの。
中国紙の変遷
中国では古来、蔡倫さいりん(?~107)が紙の発明者だと伝えられてきた。
樹皮や麻くず、ぼろ布等を石臼で砕いて水に放ち、それを漉き取って紙を作ったといい、今日の製紙法のルーツをここに見ることができる。
しかし、前漢時代(前202~8)の紙出土品が確認されたことから、蔡倫は紙を発明したというより、すぐれた製紙法を考案した人だと考える方が妥当になった。
以後、簡便な書写材料として紙が普及している。
西域のコンチダリア河畔で、328年と推定される「李柏文書」が発見され、王義之とほぼ同年代の墨書として関心を集めた。
蔡倫の時代から200年以上がたっているが、紙の表面は粗く、現在の紙に比べるとまだ劣質なもの。
隋・唐になると製作技術はぐんと高まり、茶毘紙・縦簾紙・色麻紙など種類も豊富になった。
この頃は麻の紙が主流だが、宋代には竹を原料とした紙も多く作られるようになった。
今日使われているような、墨に敏感な画仙紙が作られ始めたのは、清代以降である。
中国画仙紙
現在の中国の画仙紙は、稲藁(棉料)に青檀の樹皮を混合させたものと言われている。
その割合によって、青檀の樹皮が多いものを浄皮といい、やや割高。
中心的な産地は、安徽省(宣城・寧国・太平・涇県)である。
元々宣紙というのは安徽省宣城産の紙を指しますが、画仙紙の代名詞としても使われ、福 建省産の紙も福建宣紙などという言い方をする。
竹の繊維を主原料にしたものを唐紙といい、一番唐紙、二番唐紙(半紙の毛辺)、白唐紙などがある。
福建省が主な産地。その他、近年台湾産の画仙紙もよく使われるようになってきた。
中国紙の呼称
中国画仙紙は、厚さにより、一枚漉きを単宣、単宣を二回重ねて漉いたのを夾宣、一枚ずつ漉いた紙を二枚重ね合わせたものを二層夾宣と分類している。
その他、光沢があり表面が滑らかな高級紙を玉版宣、漉き目模様が残っているのを羅紋宣という。
加工された紙には、蝋箋、蝉衣箋、亀甲箋、倣古箋などがある。
和紙の歴史
文献上では、推古天皇十八年(610)に紙墨の製法が伝わったとありますが、それ以前に伝来していた可能性は高いと思われる。
現存する最古の紙は、正倉院に残る大宝二年(702)の戸籍用の楮紙。
平安時代になると、大陸伝来の”溜め漉き”という方法に代わって、ネリ(トロロアオイの根から取れる汁液)を使う”流し漉き”という画期的な方法が編み出された。現在もほとんどの和紙はこの方法で漉かれている。国風文化が花開いたこの時代は、かなの発達とともに華麗な料紙も多く作られた。
主原料は手間のかかる麻から、楮、雁皮へと移行し、その後三椏が加わる。
鎌倉以降、料紙は質が落ち、種類も少なくなるが、各地方で用途に合わせた特色のある紙が作られるようになる。
江戸時代には幕府の保護もあり、書写材料にとどまらず生活の隅々にまで和紙が使われた。
和紙の呼称
和紙は、原料により、雁皮紙、楮紙、三椏紙、麻紙と呼ばれる。
かなや写経用に加工された紙を料紙という。
染めたり、胡粉や明礬を表面に塗ったり、金銀箔を貼ったりと、様々な種類の加工法がありる。
その他の文房具
筆筒、筆架、腕枕、水滴、水盂、水丞、墨床、硯屏などがある。
筆筒
筆を入れておく筒。筆入れ。また、筆を立てておく筒。筆立て。
陶磁器・玉・石・竹製等のものがある。
筆架
筆をもたせかけておく台。筆掛け。
陶磁器・玉・竹製等のものがある。
腕枕
臂閣(ひかく)とも言う。
半乾きの部分に手が当たらない様に、また手が震えない様に載せる腕の枕、腕置き。
竹・玉製のものがある。
水滴
墨をするために水を蓄え,また硯に注ぐ容器。
形態や大小によって,硯滴(けんてき),水注,水盅(すいちゆう),水中丞(すいちゆうじよう),水盂(すいう),蟾蜍(せんじよ)などとも称する。
狭義の水滴は,2ヵ所の小孔(風穴と水穴)をあけ,少量のしずくを落とすくふうがなされたものをいう。
水盂
水を入れる容器。水入れ。
筆洗、筆覘、水丞を総称して水盂とも言っている。
水丞
胴がふくらみ口がやや狭くすぼまる。 匙で水を汲む。
狭義には水盂とも言う。
墨床
すりかけの墨をのせておく台。墨台。
陶磁器・玉・銅・竹製など種類が豊富である。
硯屏
硯のそばに立てて、ちりやほこりなどを防ぐ小さな衝立の事。
陶磁器・玉・銅・漆製など種類が豊富である。