豊後では中国美術を高価買取しています。
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高価買取のポイント
数多くある作品の中でも、景徳鎮窯の磁器や、銅器の置物や仏像、玉器の香炉、唐木の家具などは特に人気で、高価買査定が見込めます。
高価買取ポイントをそれぞれのジャンルで挙げてみます。
磁器に関しては、ひびや欠けといった傷が無い事です。中国では官窯といわれる当時の支配者の為に作られた完璧を求めた製品が人気だからです。
時代別で見ても、唐時代から清時代まで様々な窯で作られた代表的な焼物があります。唐三彩や宋の定窯や汝窯、元の染付、明の五彩、清代の粉彩がそれにあたります。そして中国磁器は大きさは関係ありません。明時代の10cm以下のチキンカップと呼ばれる盃は何十億という値段で取引されています。小さいから安い、大きいから高いという概念だけに囚われてはいけないのが中国美術なのです。
銅器に関しては、日本にはかなりの優品が未だに存在します。明時代や清時代の仏像や観音像、香炉がよく見られますが、高価査定ポイントは、底部に銘や年代の表記があるか、金や銀の象嵌があるか、唐木の立派な台や蓋が付いているか等になります。これらは一般の方でもチェックしやすいので確認してみて下さい。
そして中国では翡翠や白玉などの玉器が昔から王や貴族だけでなく、一般の方からも愛され大切にされてきました。玉器には様々な器形があり、香炉、筆筒、観音像、文房具、印材などがよく見られます。
玉の質と彫り具合によって査定が大きく変わってきます。更に上質な物には銘が入り、素晴らしい箱に収められ昔から大事にされており、かなりの高額査定が期待できます。
意外と盲点なのが唐木を使った木製品です。1972年の日中国交正常化により、デパートや展示場など至る所で中国物産展が行われてきました。その時に飾り棚や応接セット、花台、衝立など、かなりの優品が売買されています。
高価買取のポイントは、目のつまった質の良い木が使われているかです。優品は重さから違うのです。更に黄楊や玉、螺鈿などの象嵌が施されているかで、買取価格が大きく違ってきます。
この他約五千年の歴史がある中国美術には漆製品、竹製品、七宝製品、ガラス工芸、鼻煙壷など様々な物があります。気になるお品がございましたら何なりとお見せ下さい。
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中国美術の買取について
最近は「親が集めた陶磁器や書画、絵画などの中国美術の買取を依頼したい」というご相談が、少しずつ増えてきました。実は日本には多くの中国美術品が眠っているとも言われています。若い世代には馴染みのない中国美術ですが、今美術品の中でも注目を集めているジャンルです。さまざまな理由で、中国美術の買取価格は昔と比べて高騰しています。
世界の代表的な古陶磁といえば、中国古陶磁があり、天目茶碗など「唐物」として日本でも茶の湯文化に取り入れられた歴史があります。
中国古陶磁では、江南の景徳鎮窯、唐三彩、遼三彩、唐三彩、龍泉窯、磁州窯、耀州窯、建窯、吉州窯などが有名で、弊社では美術品としての価値もしっかり評価し古美術品として高価買取致します。
そこで買取依頼を考えている方に向けて、知っておきたい中国美術の基本についてまとめました。
隋唐の陶磁
隋(581 – 618年)、唐(618 – 907年)、五代(907 – 960年)の陶磁について
隋・唐代には青磁、白磁、黒釉磁および鉛釉陶が各地で製作された。
唐時代は、中国の陶磁器が国内外に広く販路を広げ、国際性を高めていった時代であった。
唐代の陶磁器としては、国際性豊かで華麗な三彩陶器(唐三彩)が広く知られている。
越州窯青磁
浙江省慈渓市(旧余姚)の余姚窯やその周辺の窯で焼成された青磁を越州窯青磁という。
その他の主要窯
唐代には「南青北白」と称されるように、華南の多くの窯で青磁が焼かれるとともに、華北では主に白磁が製作されていた。
白磁は、北朝時代から続く邢州窯(河北省邢台市臨城県・内丘県)のほか、河北省保定市曲陽県の定窯、河南省鞏義市(きょうぎし)の鞏県窯(きょうけんよう)でも焼造されていた。
定窯は後の北宋時代に最盛期を迎える白磁の名窯である。
唐時代の重要な窯として、他に長沙窯がある。
長沙窯は湖南省長沙市望城区銅官鎮に位置し、瓦渣坪(がさへい)窯とも呼ばれる。
唐三彩
唐三彩は、長安、洛陽を中心とした中原の墳墓から明器(副葬品)として出土するもので、この時代の厚葬の風習に伴って盛んに製作されたものである。
三彩とは低火度焼成(700 – 800度前後)の鉛釉陶器で、白化粧(白色の化粧土を掛ける)した素地に透明釉、緑釉、褐釉、藍釉を掛けて文様を表す。
製品には緑、褐、藍の三色すべてを用いるとは限らず、緑釉と褐釉のみ、あるいは緑釉と藍釉のみといった組み合わせもあるが、これらも含めて「三彩」と称している。
器種には金属器に祖形のある龍首瓶、鳳首瓶、鍑のほか、万年壺と称される球形の胴をもつ壺、水注、盤などがあり、人物や動物をかたどった俑(よう)もある。人物俑には女子像、武人像、官人像などがあり、動物には鞍と馬具を付けた馬、駱駝、墓室入口を守っていた鎮墓獣などがある。
宋の陶磁
北宋(960 – 1127年)、遼(907 – 1125年)金(1115 – 1234年)、南宋(1127 – 1279年)の陶磁について
宋時代は中国陶磁の黄金時代といわれ、青磁、白磁の名品が生み出された。
青磁は前代に引き続き華南に越州窯、華北に耀州窯がある。
越州窯青磁の窯は浙江省北部にあったが、北宋中期頃から青磁生産の中心は浙江省南部に移り、これを龍泉窯という。
汝窯(じょよう)や南宋官窯も青磁の名窯として知られる。
白磁では華北の定窯、華南の景徳鎮窯が著名である。
定窯では酸化炎焼成によるクリーム色の白磁が焼かれた。
景徳鎮は五代に始まり、元時代以降、中国陶磁の中心的産地となる窯場であるが、宋時代には青みを帯びた白磁(青白磁と称する)が主製品である。
河南省を中心とする華北一帯には、陶質の胎土に白化粧をした倣白磁を焼く一連の窯があり、これらを総称して磁州窯という。
磁州窯では、掻き落とし、象嵌、鉄絵などのさまざまな手法で加飾した、民窯ならではの創意に富んだ陶器が生産された。
南宋時代には福建省の建窯、江西省の吉州窯で黒釉の喫茶用の碗、いわゆる天目が製作された。
これらの碗は特に日本で珍重され、日本の茶道文化に多大な影響を及ぼした。
古来、汝窯、官窯、哥窯(かよう)、定窯、鈞窯(きんよう)の5つが宋の五大名窯と称されている。
このうち、汝窯(青磁窯)は現存遺品が少なく、長年幻の窯であったが、1980年代に窯址が確認された。
北宋の官窯については不明の点が多く、諸説あるものの、窯址・製品ともに実態が定かでない。
哥窯は、同窯の製品とされる伝世品はあるものの、窯の所在や実態は明らかでない。
定窯と鈞窯については窯址が確認されているが、鈞窯の典型的作風を示すものは次の元代以降の製品だとする説もある。
汝窯
青磁の名窯とされる汝窯の器は稀少で、現存するものは70数点とされている。
現存する汝窯青磁の大部分は北京の故宮博物院と台北の故宮博物院にあり、その他、上海博物館、英国・デイヴィッド財団、大英博物館、大阪市立東洋陶磁美術館などに所蔵されている。
南宋の周輝の『清波雑志』に、「汝窯は宮廷の磁器で、釉には瑪瑙の粉が含まれてる。もっぱら宮廷用の磁器であり、宮廷用に選ばれなかったものだけが販売を許されたが、近年は入手が困難である」とある。
このことから、南宋時代にはすでに汝窯青磁器が稀少になっていたとみられる。
汝窯青磁器の釉は高台の内面にまでまんべんなく掛かる総釉で、土見せの部分がない。
焼成時の溶着を防ぐためには細い支釘(ピン)が使用されたとみられ、高台内面にごく小さな目跡がみられる。
汝窯は官窯ではなく、貢窯であったという。
貢窯とは、民間の窯に税として製品の貢納を命じたもので、官窯とは区別される。
官窯
南宋の葉寘(ようし)の『坦斎筆衡』には「宣和・政和年間(1111 – 1125年)に都の卞京(べんけい)に官窯が置かれた」ということだが、この北宋官窯については、窯址・製品ともに不明である。
定窯
青磁の汝窯と並び、宋代の白磁の名窯として知られるのが河北省の定窯である。
北宋の定窯白磁は、わずかに黄色みを帯びたクリーム色の釉色が特色である。
器種は瓶、壺、水注、鉢、盤などの一般的なもので、刻花や印花で文様を表すものが多い。
鉢、盤などは、伏せ焼きにしたため、口縁部が無釉となっており、無釉部分に金属の覆輪を施すものがしばしばみられる。
白磁の他に黒釉や柿釉の碗、これらの釉上に金箔を焼き付けた碗(「金花定碗」と称する)などがある。
鈞窯
鈞窯は、澱青釉という独特の青みを帯びた失透性の釉を特色とする。
澱青釉は青磁と同様、釉中の灰に含まれる微量の鉄分が還元焼成されて発色するもので、「月白」「天青」などとも呼ばれる。
鈞窯では銅呈色の紫紅釉という赤系統の釉も使用しており、澱青釉に紫紅釉を流し掛けて斑文を表した作品もある。
鈞窯系の作品の器種には盤、瓶などの一般的なもののほか、特徴的なものとして、花盆(植木鉢)、水盤などがある。
哥窯
哥窯の窯址は未詳である。
白に近い色に発色し、器全面に貫入の入った一連の伝世品青磁を「伝世哥窯」と称している。
しかし、哥窯の名は宋時代の文献には登場しない。
「伝世哥窯」と同様の陶片は宋時代の墓や遺跡からは出土しておらず、これらの作品の正確な製作時期や製作地は未詳である。
耀州窯
耀州窯は、北方青磁を代表する窯である。
耀州窯の起源は唐時代にあり、五代、北宋を経て、金代まで存続した。
北宋時代の耀州窯青磁はオリーブグリーンと称されるややくすんだ緑色の釉色を呈する。
器種は碗、瓶、水注などの一般的なもののほか、陶枕もある。
器のほぼ全面にわたって刻文を施すものが多く、片切彫りという、文様の縁に沿って斜めに刃を入れて彫る技法に特色がある。この技法により、文様の縁の部分に釉溜りができて、釉色の濃淡が現れる。
越州窯と龍泉窯
唐代後期、9世紀に復活した浙江省北部の越州窯青磁は引き続き製作されるが、北宋中期頃には青磁製作の中心は浙江省南部の龍泉市周辺の窯に移った。
これを龍泉窯といい、南宋から元にかけて栄えた。
龍泉窯の青磁は国外に大量に輸出され、特に日本では砧青磁(きぬたせいじ)と称されて珍重された。
南宋官窯の青磁は胎土が陶器質で、器表面には胎土と釉の収縮率の差に起因する貫入が生じているのに対し、龍泉窯青磁(砧青磁)は、胎土が磁器質で、貫入がほとんどなく、澄んだ青色を呈するのが特色である。
器種には碗、瓶、香炉などがある。
遼の陶磁
五代から北宋の時代に北方に栄えた契丹族の国家・遼(916 – 1125年)においては、遼三彩と呼ばれる三彩陶、白磁、鉛釉陶(緑釉、褐釉)などが焼成された。
遼の白磁器の中では、遊牧民が用いる皮袋の形を模した皮嚢壺(ひのうこ)と呼ばれる水注が特徴的である。
景徳鎮窯
江西省の景徳鎮窯は、元・明・清を通じて宮廷の御器を焼造し、中国窯業の中心地であるが、その起源は五代にあり、宋代には郊外の湖田窯などで主に白磁を焼いていた。
典型的な製品は、白の素地に青みがかった透明釉を掛けた白磁で、器面には刻花で唐草などの文様を表す。
この種の焼物は影青(インチン)あるいは青白磁と称され、文様の縁の釉溜りの部分は釉色が青く見える。
南宋官窯
前出の『坦斎筆衡』によると、南宋の官窯ははじめ修内司にあったが、後に郊壇下に移ったという。
郊壇下とは、郊壇、すなわち、皇帝が天帝に祈る壇の下という意味で、杭州市南方の烏亀山下に窯址が確認されている。
一方の修内司官窯の窯址は不明であり、修内司とは窯の所在地ではなく、役所の名前であるともいう。
郊壇下官窯の青磁には以下のような特色がある。
胎土は鉄分の多い、陶器質の黒みがかった土で、これが分厚い青磁釉で覆われる。黒みのある土を選択し、これに厚く釉を掛けることによって深みのある青に発色し、胎土と釉の収縮率の違いから、器面には細かく貫入が生じている。
建窯と吉州窯の天目
福建省南平市建陽区の建窯、江西省吉安市永和鎮の吉州窯では南宋時代に喫茶用の碗が焼造された。
この種の碗は日本では天目と呼ばれ、茶道具として珍重された。
建窯の碗は黒みがかった陶質の胎土に黒釉を掛けたもので、表面に銀色の線状の文様が現れるものが多い。これを中国では兎の毛という意味の兎毫斑(とごうはん)といい、日本では禾目天目(のぎめてんもく)と呼んだ。
銀色の文様が丸い斑点状に一面に現れたものを油滴天目といい、斑点の周囲に瑠璃色の虹彩が現れたものは曜変天目という。曜変天目は特に稀少なもので、現存するのは日本にある3碗だけだとされている。
吉州窯の碗は、灰白色の胎土に黒釉と、海鼠釉(なまこゆう)または兎の斑釉(うのふゆう)と称される灰釉を二重掛けしたもので、玳玻天目(たいひてんもく)と呼ばれる。玳玻とは玳瑁(たいまい)の甲羅、すなわち鼈甲(べっこう)のことで、釉の調子が鼈甲に似ることからの呼称である。
吉州窯の製品には、この独特の釉に型紙を使って図柄を表したものや、碗の内面に実物の木の葉を焼き付けて文様とした木葉天目などがある。
磁州窯
9世紀頃から、華北一帯の民窯では「磁州窯」と総称される独特の加飾陶器が製作されていた。
特に北宋から金代の製品が名高い。
磁州窯系の陶器は、陶質の胎土に白化粧を施し、透明釉を掛けたものを基本とする。
器種は瓶が多く、磁州窯特有のものとしては陶製の枕がある。
文様は各種あるが、牡丹唐草文が多い。
定窯などの白磁は白い胎土に透明釉を掛けて高火度で焼き上げたものであるが、磁州窯系の陶器は、鉄分の多い灰色がかった胎土に白化粧をした上に透明釉を掛けた代用白磁であった。
この種のやきものは9世紀頃から作られていたが、北宋時代に入ると、灰色の胎土を逆に生かし、白化粧土の一部を削り取って文様を表した「掻落」(かきおとし)という技法が行われるようになった。この技法はさらに進化して「白地黒掻落」という技法が生まれた。これは、白化粧土の上にさらに黒土を掛け、その黒土を部分的に削り取って白地を露出し、白と黒のコントラストで文様を表すものである。
その他、線刻、象嵌、鉄絵、緑釉掻落、三彩など、さまざまな加飾技法が行われた。
金時代には、磁州窯で中国陶磁史上初めて上絵付けによる五彩(色絵)が作られた。
明代に発展する五彩と基本的には同じ技法であるが、この時代の五彩(日本では「宋赤絵」という)は小型の碗や壺などの小品が主で、図柄も民窯ならではの素朴なものであった。
その他の窯
日本で珠光青磁と称される粗製の青磁碗は福建省の南安窯、莆田窯(ほでんよう)などで焼かれたものと推定されている。
元の陶磁
元(1271 – 1368年)の陶磁について。
モンゴル人による征服王朝である元の時代にも、中国陶磁は停滞することなく発展を続けた。
青花
元代の陶磁史において特筆すべきことは、青花、すなわち白地に青の文様を表した磁器の隆盛である。
青花は「青い文様」の意で、英語では「ブルー・アンド・ホワイト」、日本語では「染付」と称される。
元代には西アジアから輸入されたコバルト顔料が使用されたことが分析結果から判明しており、この顔料を中国では「回青」または「回回青」(「イスラム圏の青」の意)、日本語では呉須という。
釉下彩の技法は、すでに唐時代の長沙窯に先例があるが、盛んになるのは元時代の景徳鎮窯からである。
元の青花磁器は中国国内よりも日本、西アジアなどの国外に多く伝来しており、中でもトルコのイスタンブールのトプカプ宮殿、イランのアルデビル・モスクなどの伝来品は著名である。
元代には顔料にコバルトを用いた青花のほか、銅を用いて赤く発色させた釉裏紅(ゆうりこう)という技法の作品も作られたが、銅の顔料は高火度では気化しやすく、鮮明な赤色に発色させることが困難なため、元時代の釉裏紅はややくすんだ赤に発色したものが多い。
元代青花の代表的な器種には壺、水注、梅瓶(口が小さく肩の張った形の瓶)、盤などがあり、酒会壺と称する口の広い壺や、瓢形の瓶などもある。
元代磁器の特色の一つは大作が多いことで、径40センチを超える大盤(大皿)をしばしば見る。
こうした大作主義は、輸出先である西アジアの需要に応じたものと考えられる。
文様は伝統的な龍、鳳凰などのほか、人物図、牡丹唐草などの親しみやすいものが多く、大きな器面を目一杯使用して、あまり余白を残さずに文様を描き詰めたものが多い。
主文様の上下や周囲に蓮弁文、如意頭文、波濤文などの従文様帯を配した構成には、西アジア美術の影響が看取される。
一方、五彩(色絵)の技法は、金代に磁州窯で創始されたが、元時代の景徳鎮窯ではもっぱら青花が主役であり、元時代の五彩の様式発展については明確でない。
青花の青を用いず、赤と緑の上絵付けのみで文様を描いた素朴な色絵磁器の作品群があり、これらは元末から明初にかけての民窯の作とみられる。
龍泉窯
元時代には、景徳鎮の青花が発達した一方で、宋時代以前に栄えた白磁の定窯、青磁の耀州窯などは振るわなくなり、姿を消している。
そうした中で、伝統的に青磁の産地であった浙江省では、宋代に引き続き龍泉窯の青磁は活況で、海外にも多くの製品を輸出していた。
そのことを如実に示すのが、1975年に韓国全羅南道新安郡沖で発見された沈没船の積荷の貿易陶磁である。この船は積荷の中に至治3年(1323年)の年号や「東福寺」の文字を記した木簡があり、その頃に中国の寧波の港を出て、日本へ向かう途中で沈没したことがわかる。
積荷の陶磁は龍泉窯青磁がもっとも多く、建窯や吉州窯の天目、江南産の白磁、青白磁なども含まれていたが、青花は含まれていなかった。
南宋時代の龍泉窯青磁は、白胎に失透性の青磁釉が厚く掛かった、日本で砧青磁と称される作品群に代表される。
砧青磁の釉色は青系で、刻花(彫文様)や貼花(貼り付け文様)はほとんどないのに対して、元時代には釉が緑系に発色し、器表に刻花や貼花の装飾を施した壺、鉢などの青磁器が作られた。
この手の作品は日本に多く舶載され、日本では天龍寺青磁と称されている。
天龍寺青磁の名称は、天龍寺船で運ばれたからとも、京都の天龍寺にあった青磁の牡丹文貼付の香炉に由来するともいわれる。
元時代の作品としては、このほかに、青磁の釉下に黒の鉄斑文を散らした、日本で「飛青磁」と称される手の作品がある。
かつては、龍泉窯の青磁は、砧青磁から天龍寺青磁へ移行したと説かれていたが、砧青磁と天龍寺青磁は併行して製作されていたことがわかっており、前述の新安沖の沈船からも砧青磁が見出されている。
明の陶磁
明(1368 – 1644年)の陶磁について
明代陶磁を代表する窯は、御器廠(官窯)が置かれ、宮廷御器を焼造した景徳鎮窯である。
明代には、華北の磁州窯、華南の龍泉窯は引き続き活動していたが、陶磁史を飾る主要な作品はほぼ景徳鎮の官窯および民窯の作品で占められると言って過言ではない。
明・清代には、一世一元、つまり1人の皇帝の治世の間は1つの年号が使われることが慣例となった。また、官窯の作品には「大明宣徳年製」のような年款銘を入れることがある。
こうしたことから、明代の陶磁については、洪武、永楽、宣徳、成化、弘治、正徳、嘉靖、万暦といった年号を用いて作風の変遷を説明することが慣例化しており、「成化豆彩」「万暦赤絵」のように、特定の時期の作風を年号を冠して呼ぶことも多い。
景徳鎮窯は五代には存在し、宋代には青白磁を焼造していたことは既述のとおりで、明・清代には名実ともに中国窯業の中心地となった。
陶磁器の生産には原料の陶土、焼成のための薪となる木材、陶土の精製に必要な水、そして交通の便といった諸要素が必要であるが、景徳鎮はこれらすべての条件を満たしていた。四方を山に囲まれた景徳鎮には窯焚きのための薪となる松材が豊富であり、磁器の原料土も豊富に埋蔵されている。さらに昌江とその支流による水運の便にも恵まれていた。
明代には景徳鎮に官窯が存在したが、その正確な設置年については洪武2年(1369年)説、洪武35年(1402年)説などがあって定かでない。官窯が明時代を通じて存続したものか、必要に応じて臨時に設置されたものかも定かでない。
嘉靖(1522 – 1566年)以降は、大量の磁器製作注文をこなすために、「官搭民焼」といって、官窯から民窯に委託して焼造させることが行われた。
明末から清初にかけては、景徳鎮の民窯で、官窯の厳格な作風とは趣の異なる、国外輸出向けの五彩や青花磁器が盛んに製作された。この中には、ポルトガルやオランダなどヨーロッパ向けの磁器や、日本の桃山時代の茶人が景徳鎮に注文して作らせた「古染付」「祥瑞」(しょんずい)などの日本趣味の茶器もある。
明代には青花や五彩(赤絵)に加え、白磁などの単色釉磁も引き続き焼造された。
中国の青花や五彩は国外ではもてはやされたが、当時の中国の文化人にとっては、白磁が上であり、青花や五彩のような絵柄の入ったやきものは一段格の下がるものであった。
しかし、輸出磁器の主流は青花や五彩であり、中国陶磁の装飾は筆彩による絵画的文様が主流となり、白磁は青花や五彩に主役を譲って、これらの絵画的文様の背景に退いていくこととなった。
洪武
洪武帝は建国の翌年の洪武2年(1369年)に詔勅を出し、宮廷で使用する祭器には磁器を用いることと定めた。
貧農から身を起こした洪武帝(朱元璋)は倹約を宗とし、宮廷の祭器にも高価な金銀器の代わりに磁器を用いるように命じたものである。
洪武年間の磁器には、後の時期のように「○○年製」という年款銘を入れた作品はないが、元代とも、後の永楽期とも異なる様式の磁器で、洪武宮址出土陶片(皇帝専用の紋様である五爪の竜が描かれた白磁紅彩竜紋皿などが多数出土された)と作調の共通するものが洪武様式とみなされている。
洪武期に比定されている作品には、青花、釉裏紅のほか、印花紋のある単色釉磁、内外に別色の釉を掛け分けた鉢などがある。
青花や釉裏紅の紋様は植物紋が多く、盤、鉢などの見込み中央に花卉紋、周囲に唐草紋を表すものが典型的である。コバルト顔料の不足のため、青花の色は淡く仕上がっている。
永楽
1982年に景徳鎮の珠山路にある窯址の発掘調査が行われ、「永楽年製」銘のある白磁馬上杯の陶片が出土した。このことから、永楽年間(1403 – 1424年)には景徳鎮に官窯の存在したことが認められるようになった。
永楽期の作品としては白磁と青花が主要なものである。
白磁は「甜白」(てんぱく)と称されるもので、純白の素地にわずかに青みを帯びた透明釉の掛かったものである。
青花は元代の余白を残さず濃密に紋様を描き詰める様式から変化し、余白を十分にとった絵画的な構図の花卉紋、花鳥紋などが官様式の典型的なものである。
青花の器種としては、径50センチを超える大盤のほか、梅瓶、壺などの伝統的な器形、天球瓶(球形の大型の胴部に細長い頸部がつく)、扁壺(扁平な胴部をもつ壺)、洗(底の広い、深い容器)、水注などには西アジアのイスラム圏の金属器の器形を写したものがある。
永楽期の青花には蘇麻離青(「スマルト」の音訳)というイスラム圏から輸入したコバルト顔料が用いられ、濃厚な藍色に発色している。
この時期の作品のうち、白磁には「永楽年製」銘を有するものがあるが、青花には年款銘を有するものがなく(後世の偽銘は除く)、この時期の白磁と青花の位置づけの違いを示唆している。
宣徳
宣徳期(1426 – 1435年)には青花の器にも年款銘が入れられるようになる。
青花の作調には永楽期と大きな差は見られない。
この時期には色釉に白抜きで紋様を表したものや、青花に上絵付け技法を併用したものがみられる。白抜きとは、紋様部分を盛り上げ、その部分を避けて釉を掛けたもので、藍釉を掛けた場合は地が藍色になり、紋様の部分が白く浮き出る(藍釉白花)。
このほかに白磁紅彩、青花紅彩、黄地青花などの2色を用いた磁器が製作された。たとえば、黄地青花は、コバルト顔料で紋様を描き、透明釉を掛けて高火度焼成した後、地の部分に黄釉を塗り詰めて再度焼成するもので、釉下彩(青花)と釉上彩(黄釉)を併用している。
これらは五彩のように図柄自体を複数の色で描くものとは異なり、紋様と地を別色で表したものである。
嘉靖
嘉靖年間(1522 – 1566年)には、生産量の増大に伴い、「官搭民焼」すなわち官窯から民窯への委託焼成が行われ、民窯製造の磁器にも「大明嘉靖年製」の年款銘が入れられるようになった。
嘉靖期の五彩は、青花による輪郭線は用いられず、釉下の青花は他の上絵具と同様に、青色を表す絵具として使われている。
この時期の五彩に使われているオレンジ色は嘉靖五彩の特色の一つで、黄色の上に淡い赤を重ね焼きするという手間のかかる方法で発色させたものである。魚藻文を表した壺で、鯉のオレンジ色を表すのにこの技法が用いられている。この時期には五彩や青花の他に、文様と地を別色で表した「雑彩」が盛んに作られた。
「雑彩」には紅地黄彩、紅地緑彩、黄地緑彩、黄地緑彩、黄地紅彩などさまざまな組み合わせがある。中でも黄地紅彩は手の込んだもので、透明釉の上に黄釉を掛けて焼いた後、さらに紅釉を施してもう1回焼き上げるものである。
金襴手・古赤絵・法花
金襴手
明代中期の嘉靖年間頃、景徳鎮の民窯では金襴手と称される一群の作品が製造された。
金襴手とは、五彩の色絵具の上にさらに金箔を焼き付けて文様を表したもので、碗、水注、瓢形瓶などの作品が残る。
典型的な文様構成は窓絵といって、窓枠状の区画内に上絵具(多くは赤)を塗り、その上に牡丹、孔雀、吉祥文字などの主文様を金箔で焼き付けるもので、窓枠外の地の部分は幾何学文などで埋めている。
古赤絵
明代中期の正徳から嘉靖頃に民窯で作られた一群の色絵磁器を日本では「古赤絵」と呼んでいる。
古赤絵の特色は、豆彩のように釉下の青花を用いず、赤と緑のみで図柄を表している点にある。
法花
明時代中期には三彩の系譜を引く法花という技法の作品も作られた。
法花の「法」は境界線の意であり、「花」は青花などの「花」と同じく「文様」の意である。
鉛釉に銅、鉄などを呈色剤として加えて発色させる三彩は、釉が流れたり滲んだりしやすく、細かい絵柄を表現するのは困難であるが、法花では土を細長く絞り出して色と色の境目を作る(これを「イッチン描き」という)ため、具象的な図柄を表すことが可能である。
法花の色調は唐時代の三彩とは異なり、青と緑の寒色系が基調になっている。法花の製作地については、華北の磁州窯とも景徳鎮の民窯ともいわれる。
万暦、天啓、崇禎
万暦年間(1573 – 1620年)には嘉靖期に引き続き、民窯への委託によって大量の製品を焼成していた。
万暦期の五彩には、緑などの寒色を主調にした落ち着いた作風のものと、繁雑な文様で器全面を埋め尽くした粗放で装飾過剰な作風のものとがあり、前者は万暦前期、後者は万暦後期の作品と考えられている。
後者は、日本で「万暦赤絵」と称されて殊に珍重されたものである。
「万暦赤絵」の文様は繁雑で繰り返しの多いものとなり、民窯風の活力はあるが、器形や文様には崩れがみられる。
たとえば、文様中の鳳凰の5本の尾を機械的に5色に塗り分けるなど、大量生産、分業による製作を反映した作調がみられる。
器形は多角形の面盆(洗顔用の平たい盆)、古銅器の「尊」の形を模した尊形瓶などが典型的なものであり、筆合(筆箱)、筆管、硯屏など、従来の磁器にはみられなかった器種もある。
万暦帝の没後は官窯が廃止され、続く天啓(1621 – 1627年)、崇禎(1628 – 1644年)期の景徳鎮は文字通り民窯一色となった。
明末清初の民窯
明末から清初にかけて、景徳鎮の民窯では、外国への輸出向けにさまざまなタイプの磁器が量産された。
万暦期に主にヨーロッパへ輸出された大作の青花は独特の様式をもち、これらを『芙蓉手』と称する。
芙蓉手の典型的な器種は大盤であるが、この種の盤は、見込みの中央の円窓内に主文様を描き、周囲には蓮弁文の中に副文様を描いている。
これらを全体として見た時に芙蓉の花のように華やかであるところから芙蓉手の名がある。
同じ頃、日本、東南アジア、ヨーロッパなど国外輸出向けに大量生産された五彩磁器がある。
失透性の白地に赤と緑を主とした上絵具で簡略なタッチで図柄を描いたこの種の磁器を日本では『呉州赤絵』と称する。
呉州赤絵は福建省南部に分布する窯群(漳州窯)の作である。
日本では室町時代以降、茶の湯の流行とともに、天目などの唐物の茶道具がもてはやされるようになったが、桃山時代になると、千利休が大成した侘び茶の流行とともに美意識が変化し、草庵の風情に合致した、侘びた茶器が求められるようになった。
こうした時代に日本の茶人が景徳鎮に注文して作らせたのが『古染付』と呼ばれる一群の青花磁器である。
古染付は天啓(1621 – 1627年)頃に景徳鎮民窯で作られたもので、皿、水指、香炉、香合などがある。
変形の皿(馬形皿、魚形皿、葉形皿など)や香合など日本的な器形のものが多いが、図柄は中国風の人物や山水などが描かれている。
絵付は簡略で、胎土と釉の収縮率の違いから、口縁部などの釉が剥げてしまっているもの(これを「虫食い」と称する)が多い。
同じく日本の茶人が注文した青花の器としては『祥瑞』と呼ばれる一群がある。
これは主に崇禎年間(1628 – 1644年)に作られたもので、古染付に比べると、磁土、釉ともに精製されている。
器種は茶碗、水指、反鉢などに限られ、現存作品は少ない。
祥瑞の名の由来は、この種の作品の中に「五良大甫呉祥瑞造」という銘を有するものがあることによる。
「五良大甫呉祥瑞」とは、「呉家の五男の作」との意味である。
これらの日本好みの磁器が誰によってどのように注文されたのかは、公式史料が残っておらず、明らかでない。
近衛家に仕えた山科道安の日記『槐記』の享保14年(1729年)2月26日条に、茶会に用いられた引切(蓋置)について「南京ノ染付、遠州ノ好ニテ、大唐ヘ誂ヘ遣ハスノ由」云々とあり、大名茶人の小堀遠州がこうした中国製茶器の注文にかかわったのではないかと推察されている。
清の陶磁
清時代(1616-1912)の陶磁は、中国陶磁史の到達点・総決算と称される。
この時代においても陶磁器生産の中心地は引き続き景徳鎮窯であった。
明時代の万暦帝の死去後廃止されていた景徳鎮の官窯は康熙20年(1681年)頃に復活する。
以後、康熙(1662 – 1722年)、雍正(1723 – 1735年)、乾隆(1736 – 1795年)の3代、18世紀までが清代陶磁の最盛期であった。
清時代には粉彩または琺瑯彩と呼ばれる、西洋の七宝を応用した絵付け法が開発され、磁器の器面に絵画と変わりない細密な図柄が描けるようになった。
色釉も伝統的な青磁釉や黒釉に加え、さまざまな色調のものが開発された。
こうして、清時代の磁器は、焼成技術、絵付けの技術ともに最高度に達し、人工美の極致を示すこととなった。
いったん頂点を極めた清の磁器は、19世紀以降は、国内の混乱と国力の衰退とともに従来の水準を保つことが困難となり、衰退に向かっていった。
清の初期、順治年間(1644 – 1661年)には官窯が設けられておらず、引き続き万暦様式の磁器が焼造されていた。
明末から清初、1640年代から1660年代にかけて製作された輸出向けの五彩磁器は『南京赤絵』と称されている。
清は順治13年及び18年(1656年と1661年)の2度にわたり遷界令を発した。
遷界令によりヨーロッパ諸国は一時的に中国磁器の輸入ができなくなったが、このことは日本の陶磁器の発展にも間接的に影響を与えた。
オランダ東インド会社が中国に代えて初めて日本の有田に磁器(伊万里焼)を注文したのは1659年のことで、1回目の遷界令の3年後のことであった。
康熙13年(1674年)、三藩の乱で景徳鎮は大打撃を受ける。
その後、清朝政府は景徳鎮の復興に当たる。
康熙19年(1680年)、康熙帝は官窯の復活を決める。
この時代の官窯では、陶工の人件費、材料費、運搬費から研究開発費まで国の予算でまかなわれるようになり、陶工は生活の不安なく、技法の開発に専念することができるようになった。
清代の磁器は「倣古採今」を宗とし、宋・明の古典の真に迫った模作が作られるとともに、清代独自の創造も追求された。
康熙の末頃、景徳鎮に滞在したフランス人イエズス会宣教師のフランソワ・グザヴィエ・ダントルコルの伝えるところによると、当時の景徳鎮の作陶は分業が徹底しており、陶土の採取・精製、成形、絵付け、施釉、窯焚き・窯出しから製品の検査、梱包、運搬に至るまで、1つの器ができるまでに約70人の工人が参加していたという。
絵付けの作業はさらに細分化され、器の上部の界線のみを引く工人、花の輪郭を描く者、それにぼかしを入れる者など、それぞれに専門化して作業をしていたという。
粉彩
康熙年間末期には粉彩という新技法が開発された。
これは西洋の七宝の技法を磁器に応用したもので、石英の粉末と鉛を混ぜたものを基礎に、さまざまな色料を用いて絵画的な図様を器面に描くことができるようになった。
白色についても、従来の白の素地に透明釉を掛ける方法ではなく、白色顔料による不透明な白色を得ることができるようになった。
琺瑯彩
粉彩と同様の技法を用いたものに琺瑯彩と呼ばれるものがある。
粉彩と琺瑯彩は基本的には同じ技法であるが、粉彩が整形、焼成から上絵付けまで一貫して景徳鎮で行ったものであるのに対し、琺瑯彩は景徳鎮で作った磁胎に、内務府造弁処という役所に属する琺瑯作という官営工房で絵付けを施したものである。
琺瑯作での絵付けには宮廷画家も動員され、中国絵画が磁器の器面に再現されることとなった。
琺瑯作では、初期の作品には素焼き(無釉)の磁胎の上に直接絵付けをしていた。これは、透明釉の釉上に琺瑯彩で絵付けをする技術がまだ開発されていなかったためである。
雍正年間の作品では技術の進歩により、透明釉の上に絵付けが施されている。
琺瑯作の作品が小品の碗、皿を主とするのに対し、景徳鎮窯で作られた粉彩では大型の瓶なども作られている。また、景徳鎮の粉彩では、一つの器に従来の五彩の顔料と粉彩の顔料がともに使われるが、琺瑯作の作品ではそうしたことはほとんどない。
五彩を「硬彩」と呼ぶのに対し、粉彩は「軟彩」あるいは「洋彩」と呼ばれた。
さまざまな技法
康熙年間には新技法の磁器のほか、青花、釉裏紅、五彩、豆彩などの従来型の磁器も製作された。
銅呈色の釉裏紅は、鮮明な赤色に発色させることが困難な技法であったが、清時代には技術上の困難が克服され、滲みや黒ずみのない鮮烈な赤色に発色した作品が作られた。
ただし、粉彩の技法でさまざまな色が出せるようになったことから、焼成の困難な釉裏紅は雍正以降は衰退した。
五彩は従来、赤が主要色の一つであったが、康熙年間の五彩は赤の使用が抑制的で、その分、緑色が目立つことになる。
五彩も雍正以降は粉彩顔料と併用されるようになり、従来技法の五彩は衰退した。
雍正期にはかつて「古月軒」と称された一連の琺瑯彩磁が作られた。
いわゆる「古月軒」は、皿などの見込みに絵画的な図柄を描き、余白部分に題句を書き入れたものである。
題句の文字とその前後の朱印も顔料で描かれている。
乾隆時代には粉彩の技法を用いた夾彩(きょうさい)と呼ばれる技法の作品も製作された。
これは、文様のみならず地の部分も粉彩で塗り込めたもので、七宝に近い仕上がりになっている。地の部分に針書で細かい文様を表したものもある。
素三彩
磁胎に透明釉を掛けずに焼き上げ(これをビスケット地と通称する)、これに直接色釉を用いて図柄を表したものである。
素三彩の大瓶は欧米で愛好され、黒地のものをブラック・ホーソン、緑地のものをグリーン・ホーソンと称する。
赤系の釉では、従来の銅呈色の紅釉のほか、桃花紅、胭脂水(えんじすい)などがある。
桃花紅
数種の銅紅釉を掛け、部分的に酸化炎を用いて微妙な色彩を出したものとされる。
胭脂水
金呈色の粉彩による紅釉である。
青系の釉には月白釉、天藍釉、東青釉などがある。
炉鈞釉
焼き締めた胎土に数種の釉を掛けたものである。
黄釉には従来のもののほか、酸化アンチモン呈色でより鮮明な黄色に発色したものがある。
茶葉末釉
深緑色に発色したもので、鉄釉がケイ酸と反応して結晶化することによる発色とされる。
雍正年間から現れる。
烏金釉
深く艶のある黒色に発色したもので、釉に鉄、コバルト、マンガンを含むという。
この他、宋・明の古典の模作が盛んに作られ、青銅器、漆器、木、石などの容器を磁器で模したもの(倣製器)も作られた。
乾隆以降、皇帝および年号は嘉慶、道光、咸豊、同治、光緒、宣統と続くが、国内の混乱と時代の下降に伴い、景徳鎮の作陶はかつての水準を維持することができず、衰退していったとするのが研究者の共通した見方である。
明・清時代の、景徳鎮以外の窯で特筆すべきものとしては宜興窯と徳化窯が挙げられる。
宜興窯
江蘇省の宜興窯は煎茶器を焼く窯として著名で、朱泥、紫泥などの無釉の焼き締め陶器を製作している。
徳化窯
江蘇省の宜興窯は煎茶器を焼く窯として著名で、朱泥、紫泥などの無釉の焼き締め陶器を製作している。
徳化窯の白磁はヨーロッパに数多く輸出され、ブラン・ド・シーヌ(Blanc de Chine、中国の白)として知られる。